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京都市が財政破綻の危機

京都市が財政破綻の危機というニュースを見ました。
元店員Tです。

かつて栄えたおかばあは京都市にあり、店長も店員も京都市に住んでいたので思い入れの深い街です。
その京都市がギリシャと夕張に続き財政破綻の危機とは驚きのニュースですね。現在も市長を続ける門川大作先生が当選し続けた結果なのでしょうか。
小生が門川先生に会ったのは2007年頃でしょうか、当時住んでいた西海岸というシェアハウスで、きのくに子どもの村学園卒業生のとある先輩が主催で門川大作を囲む会が開かれ、たまたま家にいた小生は彼が誰か知らなかったのですが、非常に胡散臭い人物だと直感的に感じ、その先輩に「怖い」と伝えたことがあります。大作先生が市長になる直前ですね。
その後、着物姿の彼を、ダダっ子貫ちゃんの試写もさせてもらったBAR探偵というカフェバーで見たのですが、こんなところにも顔を出すのかとよりいっそう警戒心が増したのを覚えています。小生の直感は当たっていて、ウィキペディアを見るといろいろな不祥事が紹介されていましたので、以下に引用させていただきます。それにしても深く考えたことなかったですが、地下鉄東西線は確かに必要なかったですね。まあしかし、なぜ門川大作先生のような人物が四回も市長に当選しちゃうんでしょうかね。選挙というのは不思議な制度ですね。

以下、ウィキペディアより門川大作先生の不祥事


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# by okabar | 2021-08-17 23:47 | へいてんご

なぜ空飛ぶ自動車は存在しないのか


デヴィッド・グレーバーの『官僚制のユートピア』(酒井隆史訳)の第二章「空飛ぶ自動車と右肩下りの利潤率」の原文が上のリンクで読めます(グレーバーの書いたものは英語であればほとんどすべてオンライン上で無料で読めます)。

ここでグレーバーは、なぜ空飛ぶ自動車や宙に浮くスケボーは現実化していないのかと問うています。前半ではそれにたいしてありそうな仮回答を色々と並べてみてはいますが、要点は後半部、企業的な官僚制が想像的(かつ創造的)な思考を抑圧している、という点にあります。端的にはアカデミアについて述べられた以下の文章に凝縮されています。 

“There was a time when academia was society’s refuge for the eccentric, brilliant, and impractical. No longer. It is now the domain of professional self-marketers. As a result, in one of the most bizarre fits of social self-destructiveness in history, we seem to have decided we have no place for our eccentric, brilliant, and impractical citizens. Most languish in their mothers’ basements, at best making the occasional, acute intervention on the Internet.”

つまりかつては発明家になり得そうな変人たちの避難所であったアカデミアが、今では自己プロモーションに余念のない商売人の巣窟になってしまったということ、そして追い出された変人たちは親の実家でひきこもりとしてかろうじてインターネットにしがみついているということ、これですわ。

こうした状況をグレーバーは、詩的なテクノロジーが官僚制のテクノロジーへと移行してゆく時代であると捉えています。そしてグレーバーはそれが資本主義が生み出したものであると捉えており、資本主義は自由であり官僚制に相反するといった思い込みを見直す必要があると言っています。
結論部ではこうした状況を必然のものとせず、かつて夢見たテクノロジーを現実化するには、資本主義と官僚制とは別の経済体制を始める必要があること、そしてテクノロジーはすでに生まれている以上、それは官僚制による創造性への抑圧がより少ない世界のどこかで起こるだろうことが述べられていました。
読んでみて思ったのは、グレーバーは少年のようなおっさんなんやな、ということでした。空飛ぶ自動車、ワクワクしますね。ぜひ庶民にも買える価格でお願いしたいですね。


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# by okabar | 2021-08-15 10:22

メンタリストDaiGo氏は本当に猫を愛しているのか

メンタリストDaiGo氏による、役に立たないものや犯罪者は殺してもよい発言を受けて、わたしはふと、彼は本当に猫を愛しているのだろうかと思ったのである。

なにせ猫好きといえば猫のわがままで気まぐれでコントロールできないところが好きなはずだからである。つまり猫というのは役に立たないのである。氏は猫がかわいいから自分にとって意味があると言っているが、猫にもいろいろいる。ボロボロで片目がつぶれていたり脚がなかったり、家の中を引っ掻き回して全然なつかなかったりする猫もいる。そういう猫も含めて猫を愛しているのだろうかと思ったのである。

猫派と犬派でいえばよく犬は主人に忠実な下僕のような印象を持たれているが誤解である。犬は一度信頼関係を築くと仲間への惜しみない愛を与えることができる。その無条件の愛に人は打たれるのである。

翻ってDaiGo氏には植松聖氏と同じ、人間への憎悪が見られる。それが橋本徹氏などと同じくいじめられたことからくるとしても、怒りの矛先がねじまがっていることに気づく必要がある。成功者という名の強者には身を低くし、弱者には牙を向くという態度は、未だ氏がいじめの構造の中で生きていることを意味する。

要するに、本当に猫を愛している人であるなら、役立たずは殺してもよいなどと言わないはずなのである。氏の猫好きは非常に表面的で、人間嫌い(氏は今回の発言の言い訳として自分は人間嫌いだと言っているが、その嫌悪が特定の人間集団だけに向いていることには注意が必要だ。相手を選んで攻撃しているのである)。から目をそらすために猫を利用している欺瞞的態度に他ならない。氏が真の猫好きになることを願う。

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追記
ここまで書いてふと思ったのである。
日本には死刑制度がある。
死刑制度がある以上は、DaiGo氏の「犯罪者は殺してもよい」という思想は国家のお墨付きをもらっていることになり、根本的には批判できないことになる。死刑制度の廃絶を言わなければ、DaiGo氏を根本的に批判したことにはならないし、また彼が何度も謝罪動画をあげつつも、死刑制度については言及していないことも象徴的だ。猫を保健所で殺すことに反対するというDaiGo氏の主張がよりいっそう胡散臭く感じたのはこのためである。

# by okabar | 2021-08-14 10:04

湾岸戦争詩論争ざっくりまとめ

ども、最近は詩を書いたり映画を撮ったりしていないですが、それでも依然として詩人であり映画監督であり凡人であり一般ピープルである元店員Tれす。

たまにふと藤井貞和さんの湾岸戦争詩論争を思い出すのです。一度まとめようと思ったことがあったのですが、藤井さんの論理がぐねぐねとしていたし、瀬尾さんの論理もわかりづらかったので諦めました。何年かして細部は忘れて頭の中で単純化して論争がわかりやすくなってきたので、正確さは無視して頭の中の思いつきで整理することにします(瀬尾さんからは大いに不満が出ると思いますが)。論争についてサクッと知りたい方はこちらを参照してください。

湾岸戦争当時、『鳩よ!』という詩の雑誌にいろいろな詩人たちが湾岸戦争に反対する詩を書いたり翻訳したりしました。藤井さんもまた『飾粽(かざりちまき)』という詩誌で湾岸戦争を憂う情けない詩人の独白のようなスタイルの詩を書きました。それに谷川俊太郎さんとか瀬尾育生さんとかいろいろな詩人が苦言を呈しました。いろいろな人が批判しましたが大略して、「詩なんて無力なのはわかりきったことだ。戦争反対のスローガンに乗るなんてダサいし不快だ。真情の吐露は天皇制と繋がる(瀬尾さんによる批判)」ということでまとめてしまって良いと思います。それに対して藤井さんもいろいろ言いましたが、①詩は非力だが無力ではない。②戦争は詩を破壊するから詩人は反対すべき③詩人とは詩の神学的な力にかける人たちのことではなかったか。の3点にまとめて良いと思います。

このうち①についてはほぼ全ての詩人たちが形而下学的な話として理解したので噛み合いませんでしたが、藤井さんからは湾岸の神に訴えるというような、形而上学的な話として出されたため、誰もついていきようがありませんでした。核兵器の使用を止めるというような事態は形而下の出来事なのでここも形而上と形而下が混ぜこぜではあるのですが、文学が神様に訴えてきたという伝統にのっとった話としてはそれほど奇異でもないと思います(藤井さんはまた別の場所で、神との繋がりが途絶えたところから文学は発生した、というようなことを言っています)。②の戦争に反対すべきというのも特に議論するほどの主張ではありませんが、当時の時代情勢の中で反戦がダサく、また多数派となる思考停止だとの印象を持った詩人たちも多かったのだろうと思います。反戦詩を書けと言われているように誤解されたきらいもあります。しかし戦争が芸術を破壊するのは自明ではないでしょうか。③議論の途中から藤井さんが神学的な〜という言い方を始めたり予言の話をし始めたので、藤井は本気で言ってるのかそれともポーズなのか、ととられました。また、瀬尾さんによる天皇制の話も、神に訴えるというようなことや、憲法のこととも関わって、日本的な文脈では宗教臭がして危険だととられたのかと思います。しかし藤井貞和が最後まで訴えていたのは、藤井貞和という個人の情けない存在の話ではなく、詩の中で同人誌に一万円を払って泣いているしじんはあなたじしんでもあるのではないのか、という話しでありました。詩で私と書いたからそれが藤井になるというそういう話かと。しじんとはそもそも、かける人々ではなかったのか、と。

今となっては瀬尾さんもむしろ論争という形を残してくれた点で良い仕事をしたように思います。それよりも谷川俊太郎さんや松浦寿輝さんら著名な人も含めて様々な人が藤井さんを皮肉ったわりにしれっと論争には入らなかった日本現代詩の雰囲気が私にはイマイチでありました。織田裕二と共にズッチーナと言いたい気持ちです。昨年の現代詩手帖で瀬尾さんらが湾岸戦争詩論争を回顧しているようです。どんなことが書かれているのか気になるところであります。
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# by okabar | 2021-08-12 10:45

誰が風評被害を生んでいるのか(福島の風に聴く)

ども。元店員T、現在は給食のおじちゃんTてす。
今日、サイレントフクシマという映画を観ました。
昨日まで無料だったのにワイファイが切れていたため今日になって有料で観ました。良い映画でした。

そいで最近、この映画にも出てくるおしどりのまこさんのツイッターや、ちょこっと出演の矢部史郎さんのブログ、あるいは出演者はしてないけど牧野淳一郎さんのツイッターなどを観ながら、放射能汚染による風評被害についてふと考えたのです。
放射性物質は物質なので環境中にまんべんなく広がるのではなくムラができます。汚染された海や土地でも海産物や農作物がまんべんなく汚染されるわけではありません。農業の場合には汚染地域でも徹底的に除染してシートで囲って土や水を他所から持ってきて使えば安全な農産物が作れるかもしれません。海産物の場合も特定の個体は偶然汚染されていない可能性もあります。検査技術が向上し検査過程が透明になれば汚染地域とされる場所の産品も安全なものとして流通させることができるかもしれません。

しかし現状では消費者の立場では、どの商品が本当に安全なのか確証が得られません。ゆえに産地で選ぶことになります。人によっては福島だけでなく、東北、関東圏全般の産地を避ける人もいるでしょう(そこまで気をつける人が10年経った今どれくらいいるかはわかりませんが)。で、これを風評被害と言うなら、風評被害を生んでいる真犯人は信用を得られていない日本政府と流通産業なのではないかと思うのです。賢い消費者は本当に安全なら買います。日本政府と食品流通業の人間は本当に安全にしようなどとは思っていません。どちらが福島を見捨てているのか、どちらが風評被害を生んでいるのか、火を見るよりも明らかではありますまいか。ましてやこれに産地偽装で対抗したり、アルプス天然水ならぬアルプス処理水でヒラメちゃんを育てたりしてしまうような連中が相手なのです。風評被害の風はその強さをますます強くしていくばかりです。

ほいでこれ、十年前にも書けそうなシンプルな内容なんですが、なぜか今まで思いつきませんでした。風評被害という言葉の呪縛ですな。

写真は愛犬のミアちゃんです。
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# by okabar | 2021-08-09 21:53 | わすれない