走る線のうえで身体は踊ってる(さくらこさんの絵について①)

いやー、夜のフリマ、なんですかあれ、びっくりしました。すごいひとでしたね。
詳細はまた岡くんがアップしてくれると思いますが、ともかくありがとやんした。

さて、この日、びっくりしたのは、さくらこさんの展示がオカバーで実現しちゃったことです。
すみません、接客を放棄して展示を見るのに徹してました。
あきさん、はっとりさん、ありがとう。
おかくん、まじごめん。

はまぐちさくらこさんの絵①

さくらこさんの絵について、前々から語ってみたいとは思いつつ、
なかなか言葉になりませんでした。
でも、せっかくなのでこの機会にぽつぽつ書いてみます。

線の話です。これはタタタタカハシさんと話していて気がついたんですが、さくらこさんは他人としゃべりながら絵を描いたりします。そのとき、手だけが独立した意志を持っているように見えるんです。それで、これはシュールレアリスムの自動筆記みたいだと思いました。たぶん、絵を描くときのさくらこさんの手は、高度な自律性を獲得していて、脳から指令が伝達されるよりも先に動いているんだと思うんです(たぶん)。

ところでさくらこさんの絵はよく「子どもが描いたみたい」と言われますが、じゃあ子どもの頃の絵をそのまま今に再現しているのかというと、そうではないんです。幸運にも先日、日比谷のカオスラウンジの展示にて、さくらこさんの中学生時代のらくがきノートを観る機会に恵まれたのですが、今描いてる絵よりもよっぽど線がはっきりしていました。つまり、これ重要な点ですが、さくらこさんの場合、描くという行為の反復の中で、線が自由になっていってるってことだと思うんです。これ、すごいことですよね。

自動筆記はもともと、無意識を意識から解放する試みであったと思うんですが、さくらこさんの絵がどこか純粋な楽しみに満ちていて解放的なのは、手の自律性と関係があるんじゃないか、そんなことを思う今日この頃であります。

およそあらゆる種類のコンテンポラリーダンスを貫く共通の課題があるとすれば、それは拘束された身体の解放であり、身体に自由を獲得することだろうと思います。では絵画表現において身体の解放を見ることはできないのか、というのが今日のテーマなのですが、できる、ということを絵に教えられた気がするのです。

つまりこうです。さくらこさんの絵を見るとき、ひとは走る線のうえに踊る身体を見ている。
これ、おおげさに思われるかもしれませんが、素直にそう思います。

線は自由にする、つまり、絵を通じて身体が解放されてゆく、そんな過程をさくらこさんの絵に見ているのは、はたしてわたしだけでしょうか。いやきみだってきっと。
はい、ということで今日はここまで。
次回もまた見てくれよな。


追記

うーん、なんかあまりにも「すごい」って書きすぎたんで、
次回は「しょぼい」ってことについても(もちろんいい意味で)、
書きたいなと思います。
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by okabar | 2010-12-12 01:24
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