「ほっ」と。キャンペーン

台北に降る雨はなにを濡らすのか(台北美術旅行記)

烏龍茶を買うために台北は頂好デパートまで行って参いりましたのは去る11月初旬のことになりますから、はや2ヶ月近くが経過してしまったことになります。遅くなりましたが研修旅行報告記をここに記させていただきます。ちなみに12月に行った横浜研修旅行については、寿合宿日記に少し書いていますのでちぇけら。ここで出会った幸田千依さんは昨年見た作家さんの中でも特に今後の活躍が気になる方でした。

GEISAI受賞者グループ展@カイカイキキギャラリー台北

さて台北報告です。
烏龍茶を買い終えて旅の目的を見失ったわたくしは街をぶらぶらと彷徨っていたのですが、そこで偶然カイカイキキギャラリーというのを見つけたのです。入ってみるとちょうどグループ展をしていたので見ることにしました。GEISAI受賞者グループ展というやつです。

詳しい説明ははぶきます。

エロスと芸術

ところで今回考えてみたいのは、エロスと芸術の関係です。
なぜかといえば、台北旅行を前後してちょうど読んでいたのが美術評論家ヨシダ・ヨシエによる「エロスの迷宮から」という文章だったからです(『ヨシダ・ヨシエ全仕事』にも所収)。

エロスについては少し説明が必要でしょうか。わたしの考えではエロスとはいわゆる「エロ」ではなく、広い意味での「生命力」みたいなものです。これに対して性的な表現を中心とするいわゆる「エロ」のことをエロティシズムと呼ぶことでここでは区別をつくっておきます。

つまり、ある表現にエロス(生命力)を感じるかどうかは、性的な表現であるか否かとは関係がないわけですが、ただ同時に、エロティシズム(性的なあるいは身体的な)表現は、エロスへと向かう途上にあってやはり特別な意味を持っているようにも思います。

ヨシダ・ヨシエ「エロスの迷宮から」

この文章は、エロスと芸術について考えるうえで大変参考になる名文なのですが、ヨシダさんはこう書いています。

人間固有のエロティシズムというのは、結局、制度や規範やタブーの抑圧と対応し、緊張しながら膨張しつづけている負の言語体系ではなかろうか。つまりエロスの形象化であるエロティシズムは、歴史的状況にたいする生命的反応だとみることができるのではありませんか。

また、終わりのほうでは次のように書いています。

一回性・交換不能の生はさまざまな歴史的状況に意識するにせよ、しないにせよ拘束されている訳ですから、生はそれにたいして、自由という、ある意味では不可能性に向けて、つねに羽ばたこうとするのでしょう。そこにわたしはエロスと自己表現との重要な接点をみる訳です。エロティシズムというのも、そのような解放への道のりの過程の屈折に富んだ反映だともいえないことはない。一応、家父長権力によって成立した文化の末端にいるわたしが、男と女のエロス表現の差異にこだわってきたのも、このような前提によってであります。
 そしてわたしの貧困な想像によれば、抑圧を内在化させてきた女性たちに、エロティシズムという言語体系のイニシアティブがうつることとおもわれます。


したがって表現としてのエロティシズムは、抑圧に対する解放の声だと言えそうです。ここで興味深いのは、エロティシズムの表現においては、女性に主導権がうつるだろうと語られていることです。この文章の初出は1977年ですが、「エロスを直視することをためらわない女性たちの出現」に対する、ヨシダさんなりの同時代的な応答と考えてよいでしょう。

カイカイキキ台北の感想

さてここで、「あっ」と思い出されたことがあります。わたしの見た「GEISAI受賞者グループ展」において明確にエロティシズムの表現を取り入れていたのは5名(美島菊名、はまぐちさくらこ、西尾康之、國方真秀未、照沼ファリーザ)だったと思いますが、名前から判断するに、このうちの実に4名が女性なのです(たぶん)。ヨシダさんの文章からすでに30年以上たっている現在においては、また別の視点が必要なのかもしれませんが、しかし女性作家におけるエロティシズムの表現というテーマは現在もなお重要な切り口であるように思うのです。この4名のうち、幸運にも美島菊名さん、はまぐちさくらこさん、照沼ファリーザさんの3名には直接お会いして話を聞くことができましたので、以下、作品について少し感想を書きたいと思います。


美島菊名さんの展示

いぜん若手アーティストが討論するというある番組に美島さんも出ておられました。なので美島さんのことはその番組を見て知っていました。口ベタなのか全然発言できていなかったので面白そうな人だなと思っていましたが、やはり面白い人でした。美島さんのはすべて写真作品で、ひとりの少女をモデルにしてそこにアレンジを加えるという手法で作られています。ネット上でも作品が見れますが、本人いわく、できるだけデジタル加工はしたくないとのことで、合成写真ではないというところが、彼女の作品を観るうえでポイントになりそうです。美島さんの作品は、「現実」を少し補完してやることでそこに本当の現実を写し出している、そんな印象を持ちました。大切なことは目に見えない、じゃないけれども、わたしたちが普段みている現実というのは、常になんらかの限界によって隠されているわけです。たとえば少女の鞄の中が赤い林檎でぱんぱんになっていることを、わたしたちは知りません。あるいは彼女の胸には花が咲いているということも、わたしたちは知らないわけです。美島さんの作品は、いわば可視化されていない本当の現実をファインダーに写し取る作品だといえるでしょう。その際、少女の欲望が赤い林檎や胸部に咲いた花のようにエロティックな形をとって現れているのは、偶然ではないはずです。隠されているからこそ、その欲望を表に引き出してあげたい、そのような視線を、美島さんの作品とその人となりから感じることができました。余談になりますが、開催期間中、美島さんの尊敬する写真家の方が展示を見にこられたそうで、そのことに感動した美島さんの目を、毎日のように降る台北の雨が濡らしていたことも鮮烈な印象として残っています。

はまぐちさくらこさんの展示

さくらこさんの展示は何度か見たことがありますが、この人の作品においてもエロティシズムは欠かせないテーマであるといえるでしょう。「はだかちゃん」とか「ぱぱのぱんつ」とか、わかりやすいものから、特にシリーズ化はされないだろう無数の小さなエロキャラやエロ表現が、さくらこさんの絵の中には点在しています。さて今回のカイカイキキの展示でいえば巨大なアクリル画が、入って正面の壁に展示されていて存在感を湛えていました。その大きな絵の中には大小無数の物語が共存しており、夜の闇も昼間の太陽も同じ画面の中にあります。以前このブログで線について書きましたが、さくらこさんの絵を見るときには線だけでなく物語りにも、意味から無意味へと逃げていく自由な戯れを感じます。エロティシズムのことでいえば、ひとつの絵の中にたくさん「SEX」という文字が散りばめられていたり、はだかのおとこのこたちが並んでいたり、子どもが描くようなちんこの絵があったりするわけですが、それらがなんらかの目的に奉仕することなく自由に遊んでいることが見ていて面白いのだと思います。最近の作品で特に感動したのは0000ギャラリーのショップに売られているマンガ作品で、登校拒否18年のキャリアを持つはだかちゃんが主人公なのですが、はだかちゃんを見ていると、やはりこれは絵画における全裸パフォーマンスではないか、と思ってしまいます。つまりダダカンさんと同じく、解放に向けて走る(というか遊ぶ)すがたがそこにあると。とりわけその戯れはキャンバス画よりも紙きれのうえで楽しく舞っているようにも思われるのですが、その話はまた別の機会に書きます。本人と話してみて印象的だったのは、彼女が必ずしも「かわいいもの」や人間の明るい部分だけを描こうとしているわけではなく、同時に暗い部分や「へんな」ところも描こうとしているということです。エロスに関していえば、それはつねにその逆にあるタナトス(死)を抱えているわけで、わたしがさくらこさんの絵に魅かれるのも、光と闇の両方が、というかむしろ闇の部分が、深さを目指して暗く輝いているからではないか、とも思いました。

照沼ファリーザさんの展示

カイカイキキのギャラリーを順番に見てまわっていると、裸の女の子をモデルにした写真作品がありました。わたしはすぐに、「ああ、男性カメラマンが女の子をモデルにして撮ったんだな」と思いました(先入観とはおそろしいものです)。後でファリーザさんとお話する機会があって、そこではじめて、その作品がファリーザさんの作品で(名前ちゃんと見てなかったですすみません)、しかもなんとご自身をモデルにして撮られたものだと聞き驚きました。自分の裸を作品にするというのはこれは並大抵のことじゃないぞと思ったわけです。それでダダカンさんの全裸パフォーマンスの話をしてみたのですが、「AVみたいですね」と返事がかえってきました。ここでもわたしは即座に「いやAVとは違うと思いますけど(笑)」と答えてしまいました(先入観とはおそろしいものです)。よく話を聞いてみると、なるほどAV作品においても意識的な出演者はいるわけで、作品にもよるとは思いますが、解放を目指したパフォーマンスといえるのかもしれません。AVにおいては消費流通の問題や間にどのような人物・会社が介在するかという難しさもあるかと思いますが、たしかに森下くるみもその著書の中で「解放」という言葉を使っていたなと後で思い出しました(ちなみに最近出た『らふ』という対談集も面白くて、晶エリーさんがいいこと言ってました)。話を伺ってみて、ファリーザさんには「とってもかわいいもの」と「それを汚したい」という対立するふたつの欲望があることがわかりました。そこで思い出したのが「聖なる弁証法」という言葉です。もともとはバタイユの用語で、岡本太郎が好んで用いていたようですが、これは普通の弁証法とは違い、聖なるものに別のものをぶつけるという、その破壊の衝撃や運動そのものを目的とした弁証法なのです。そういえば、太陽の搭に全裸で走りこんだダダカンさんの行為も、聖なるものにたいする涜神であったといえるかもしれません(ただしわたしはダダカンさんこそ聖なる存在だと思ってますが)。ファリーザさんに「聖なる弁証法みたいっすね」と言ってみたところ、「そうかもしれない」とおっしゃっていただけました。この人は、今回会った作家さんの中でも最も意識的な人で、最初はキラキラした人がいるなーと思って近寄り難かったのですが、話してみるとすごくいろいろ考えておられる方で面白かったです。女性ファンが多いことも特徴で、実はオカバーでも何人かファリーザさんが好きだという女の子に会いました。本人もキラキラでしたが、彼女のブログもキラキラしています。

おしまい

さて、三人の女性作家について書きましたが、それぞれの作家・作品についてやはり「解放」がひとつのテーマになっているような気がしてきませんかねえ。もちろん芸術においてはエロス(生命力)を表現する際に必ずしもエロティシズムに依る必要はありません。例えば台北に降る雨だって、街路に生える樹の根っこだって、エロスを感じさせる時があるわけです。しかしエロティシズムに注目して、現在を生きる芸術家やその表現を見てみると、今まで見えてこなかったなにかが見えることも、あるのではないかと思うわけです。

どうやら台北の雨に濡らされていたのはわたしのおめめだったようです。
おあとがよろしいようで。
[PR]
by okabar | 2011-01-07 16:12 | おしらせ
<< 移民のつどい(1月6日) 1月6日は引越しBAR >>