OKABARADIO、5回目85分スペシャル! 



毎週木曜日、京都のザ・パレスサイドホテルにてOPENするおかばーのラジオです。
20:00から24:00まで木曜のみ皆勤営業中!
5回目は、特別ゲストもあり。

コーナー
「店長に相談」
「ポエトリー坊主のポエトリータイム」



対話

店員M「どうなん?」
店員T「いやあ、自分で聴き返してみて、赤面しつつ青ざめて冷や汗です」
店員M「そらそやろな。軽率やできみ」
店員T「すんません反省してます」
店員M「勝手に反省しとけ。まず言っとくけど定は愛してるから吉蔵の首を絞めたんであって、お金もらって首しめたんちゃうからね。なにが現代の阿部定事件や。愛のコリーダとは何の関係もないで」
店員T「はい、ほんまにそうです。表層的な理解だったと思います」
店員M「そもそも性産業について面白おかしく話せてしまう時点で豊かな想像力どころかそこで働く女性(や男性)に対する想像力の貧困やと思うんやけどね。まあそこらへんにいるサラリーマンや学生と変わらんちゅうことやね」
店員T「はい、つくづく自分の凡庸さと鈍感さが嫌になりました」
店員M「いやいや、きみが凡庸な男なのはわかってたことやん。これからきみみたいな小心者の性差別主義者のことを“男根の世代”と呼ばせてもらうよ」
店員T「いやでも男根は弱さの象徴でもあるわけで…。まじ鈍感力くそくらえって思います」
店員M「きみのことやね。男根が弱さの象徴なら無神経な発言すなよ。ダダカンさんに迷惑かけるな」
店員T「ほんますみません。全国の少女少年たちは私のような愚か者を反面教師として、健やかに育ってほしいです。これからの世代に期待です」
店員M「いやきみが変わらんと次の世代も変わらんよ。ひとのせいにすんな」
店員T「すんません」
店員M「きみのような男根世代の男子は高里さんの本でも読んで元気なくせよ。まあ期待はしてへんから安心せい」
店員T「精進します」





高里鈴代『沖縄の女たち』(明石書店、1996)より

「セックス産業で働く女性たち」(185~188頁)

「よく「ソープランドの女性たちは好きでやっているんじゃないか」と言われます。私たちは、どんな嫌な仕事でも、たとえば流れ作業の仕事で、ああ嫌だ、腰が痛い、とか思っても、ある時間は楽しめますよ。どんな仕事でも。専業主婦を牢獄みたいで嫌だと思っても、子どもの寝顔見てほっとしたり喜んだりするんです。ソープランドで売春していたって、入るときも抵抗がある、やっていても抵抗がある。物に扱われて嫌悪感も恐怖感もあるけれど、それだけでは人間は生きていけない。人間は生き延びるために現実を受け入れざるをえなくなるんです。どんなに酷い夫でも、体罰教師でもそのなかでなんとかいいものを見つけ出したくなるんです。これは兵隊でもそうよ、軍国主義は嫌だと思って兵隊に行っても、友だちが倒れればつい銃口を敵に向けて立つとか、そういうことは戦地でいくらでもあることです。
 男性たちがよく言うんですが、彼女たちは好きでやっているんだよ、と。でも、まず商売ではお客には必ず好きでやっていると見せるんです。これが商売だから。ジェーン・フォンダの『コール・ガール』という映画がありますが、多くの指名を受ける高級コールガールの女性は、顧客とのセックスは演技でしかなく、時計を見ながら早く終わらせようとする。この感覚は私が出会った多くの女性たち共通に持っている。十五分五千円の買春なら十三分で終わらせたい。
 でも、ときには相手が自分の初恋の人に似ていたり、自分をほっとさせてくれる人だったり優しかったりするときは、この人は他の人とはちがうと思いたくなる。でもこれは今まで売春してきたり、今やっている人を含めて売春しているそのことよりももっと自分が人間として扱われたいと思っているんです。皆自分が物扱いされていることを経験しています。だって自分の行為でお金を支払われるからです。だから少しでも多くチップを出させようとすれば一生懸命サービスします。
 トルコ風呂の実態を書いた『トルコロジー』にもあるんですが、女性がいくら一生懸命サービスしても、男性が機械的だと感じたら満足しないんです。機械のようにするけれど、でも人間がやったと客には思わせることで、自分にかしづき、自分を満足させ、王様のように扱ったのは、生身の人間である、ロボットでない、女なのだということ。これが百二十パーセントの満足になるんです。九十パーセントの満足では同じ店に来ようとは思わないんです。三万出して、満足したと思うのは、相手が徹底して物になったときです。だから徹底して物になって、でも相手には物ではないかのように相手にやったとき、相手はくり返しやってくるんです。
 だからこの売買春のメカニズムは、売買春を否定する側の女性から見れば、まさか売春を喜ぶなんて、いやいややっているのよ、と思うことで売春を否定したい気持ちになるけれど、実際彼女たちと出会った男たちは、「いや、喜んでやっていたよ」と言うんです。彼女たちにいわせれば、「喜んでやっているように見せて喜ばせてやっていたのよ、あなた気づかなかったのね」ということ。
 実は大阪でホテル客への売春をやっていた女性がいるんですが、彼女は五年前から売春を辞めているんです。その彼女がある男性を好きになって、三年振りくらいで性関係を持ちました。「男って単純ね。『ぼくこそ君を女にした』っていっている」と報告する彼女は、自分が売春していたことを彼に言えず、売春の過去が彼に感じとられないようにと緊張している。彼女は、米兵には「エイズが怖いからコンドームを二枚しなさい」というくらい強気の人で、十五分五千円なら十分で上げてしまうというくらい凄腕の人。暴力団から逃げたりさまざま頑張ってきた人なんです。
 その彼女が好きになった人とのセックスを心配しているんです。これは売春の関係だけのことではなくて、私たち自身のセクシュアリティへの問いだと思うんです。それを問うことなしに「あの人たちは本当に好きでやっているんだろうか」「それは嫌だ」「いや本当はいやいややっているんだ」なんてところで売春は論じられない。まして男性は「ぼくの相手は満足していた」「相手も喜んでいた」というけれど、多くの場合射精しないと相手が帰らないから必死で演技するわけです。商売だから。」


この社会の延長線(190~191頁)より

「売春に入る直接の理由は色々です。離婚して生活をたて直すことや、夫の暴力から逃れることが原因だったり失恋だったり、家出だったり中絶費用をサラ金に返すのが目的だったり、ある業者からお金を借りた人の保証人になって返せない人が、その業者がゴルフツアーの客に女性を斡旋しようとしたけれど女性の数が足りない、その女性を売春に誘ったなんてのもあります。売春に誘われる状況というのはつまり、経済的、心理的、さまざまな状況があるんです。ちょっと変われば明日はわが身なんです。圧倒的多数の女性はそんなことにかかわりなく生きられる安全圏にいるけれどでも、そこにいる女性は決して怠け者でも性格が歪んでいるのでも何でもなくて、たまたま女性の価値が自分の経験から劣ってしまったと思わされてしまったんですね。もういいや、ここまで来たら同じよ、と自分を投げ出してしまったんで、ほとんど同じ状況の女性はすぐ隣にいっぱいいるんですね。その所に誘いが色々くるんです。そしていざ何か発生すると女性ばかりが問われて買っていた男性は一切何も問われない。」


恥じるべきはどちら?(192~194頁)より

「北陸三県のある買春街で働いていた二十代の女性は、全国各地から会社の慰安旅行、先生の研修旅行、何とかで皆くるんですって。ある先生の団体がきて、皆買春する、ある先生に「ほらこの人先生の好みでしょ」と彼女があてがわれて、でもこの男性は本当は不承知のようす、買春したくない。でも皆が「おごっちゃえ」とお金を出しあったんです。皆部屋に入ったら彼は「何もしないから安心して」と言って、彼女は久し振りにのんびりできた夜があった。
 私は「でもなぜ彼は皆の前で自分は買わない、買いたくないと言わなかったの」と聞いたんです。「だって言えないんじゃない、仲間外れにされるから」というのが彼女の返事した。男性はそういう、そんな気持ちにならない、嫌だということすら言えない男社会の仲間意識にからめとられていて、自由になれない。小さいときからの人間性教育だって受けていないんです。嫌だというのが普通で、誘うほうが不埒なのに断るほうに努力がいるのがおかしいです。
 買春に厳しい社会と、皆で一緒に買春して翌日感想を話し合うことも可能な社会、後者が普通の仕事とセックス産業がつながる土壌なんです。ビジネスホテルに泊まれば必ずポルノビデオが入っている、一流ホテルでもちゃんと入っている。それに皆何の疑問も持たない。ああだれか誘いたいなと思えば、そういえば電話ボックスにこんなのがあったな、とあるいは誰かに渡されたものがあれば電話一つで女性が配達されるんです。一流ホテルといえどもそういうことが公然とできるこの日本社会は、売春している女性に「なぜ?」なんて問う以前の、もっと大きな仕組みを問題にしていない。強姦を告発できる社会を作ることが、買春をなくしていくことだと思います。
 また、つい最近強姦された女性は、妊娠していないことが分かったんですが、「今何が一番心配?」と聞いたら「私、結婚できるでしょうか」というんです。彼女は中学のクラブの先輩や後輩の飲み会があるからと誘われて、待ち合わせの場所から連れていかれた三人の男性に強姦されたんです。ところが警察にも彼女は言えない、今は妊娠していないかどうかだけでいいと言うのですが、その彼女が結婚できるかどうか心配している。私たちは言うんです。「それは逆よ。『幸せな結婚をできるかどうか、人を愛することができるかどうか』問われるのは強姦した側、『俺は一体何をしてしまったんだろう、俺は人を愛せるだろうか、結婚できるだろうか』と問わなきゃいけないのは相手なのに、なぜあなたが悩まないといけないの」と言っているんです。」


男の子、女の子、育て方の転換(194~196頁)

「私は今、PTA関連で母親たちに性教育のことを話す機会がふえています。特に、高校生たちに話すチャンスは万難を排して出かけます。
 話す条件は、何年生であろうと、男女一緒であること。男子には「好きだ、好きだ、で迫ってキスしてってなるんだけれども、本当に好きなら絶対に相手が泣くようなことをしてはだめだということ、またさらに先へ行って関係ができても、その関係は社会性を持つのだということ、だからトイレに行ったらお尻を拭くように、朝起きたら歯を磨くように、自分の行動にはキッチリ責任を持つこと」という。
 そして女子には「小回りがきくとか、優しいとかいわれて、男は我慢できないなんていわれると、しようがないわねといって応じてしまう女性が多いが、男の人ってこんなものなんていわないように」と言うんです。
 相談した高校生の場合、初めてのセックスを、「自分はしたくなかった、妊娠が心配だった、でも男の人って我慢できないっていうし」、また中絶も「一、二回なら大丈夫と思っていた」と言うんです。女性が、相手のことを思って応じてしまうのは、「女の子は優しいほうがいい」とか「呼ばれたらすぐ返事しましょう」とか、素直がいい、として、男の子にはパイロット、女の子には保母さんや看護婦さん、優しい先生になって皆のお世話をする人になることが期待される。その固定的性役割を、男女の関係において強いられると、「ノー」ということが何か悪いことをしているように自分を責めてしまうんです。冷たくしすぎて悪くなかったかしら、私は冷たい女っかしら、とか。
 そうではなくて、今はその気はないとか、妊娠するかもしれないからいやだとか、キスまではいいけどそれ以上はいやだとか、自分のことをはっきり言える、嫌なことはノーと言える子になることがだいじです。母親たちは、女の子は傷つけてはいけないから、と種痘もビキニを着たときに隠れる場所にするとか、転んでも傷物、強姦されても傷物とかいってしまうけれど、私は特に女の子には転んでも、失敗しても傷ついても、必ずやり直しが効くんだということを教えたい。
 男の子と女の子の育て方を、伝統的な「らしさ」の教育とは逆の発想でするのがちょうどいいと母親たちに話しているんです。私たち女性は、自分の同じ性を持った娘には、「嫌なものは嫌」といえる子にする。息子には「相手が嫌ということを、確認もなくやってしまうのは、これは愛情でも何でもなく、押しつけなんだ、でもしてしまったら責任は必ず自分にある」と教える。だから子ども部屋の掃除を絶対母親だけではやらない、靴洗いも自分でやらせる。これは何も性別役割分担の問題ではなくて、自分の部屋の掃除を自分でするということは、男女の関係のなかでも自分のやったことの責任がとれる子に育てることにつながります。要は、女性が嫌なことを嫌ということで自分の価値が下がるなんてことは一切なくて、強姦でも何でも、「言わなければ良かった、言ったために、皆が自分を変な目で見ている」という思いにならないような社会、売春している人を除外視しない社会を作ることだと思います。そうなるためには、女性が「売春は、売る側と買う側があって、実は私の夫や、父親や兄や弟たちがかかわっているかもしれない、私にしっかりつながっていることであって、決して安易な生き方をしている一部の女性たちのことではない」ときっちり押さえること。自分たちも、男たち恋人や夫たちと、「嫌なことは嫌」と言える関係をどこまで作っていけるか、にかかると思います。」


女性差別はみんなの損失(198~199頁)より


「セクシュアル・ハラスメントの問題を議会で取り上げました。取り上げる前に、ある年配の男性議員が「世の中厳しくなったなあ、女のオッパイも触れない時代だ」というので、「いいえ、触っていいんですよ、触って下さい。ただし、前とちがうのは、相手の気持ちをたしかめて触って下さい」と言ったんです。「今までは相手の気持ち、意志を確かめずに、自分が良ければ相手も良いと思いこんでいたんです。これからはたしかめないと裁判デスヨ!」と言ったんです。」


共通する根をたち切る(200~203頁)より


 「一人の女性は、四百枚もの〔男性客の〕名刺をファイルしていました。「まさかこの女があの女たちと繋がるはずがない」と。彼女を見くびっているからです。男性は女性を二種類に分断し、自分は両方のあいだの仲裁役だと思っている。自分は真ん中にいるつもりで。でも、そうではなくてあちらにいると思っている女性、こちらにいると思っている女性がお互いに「あなたの生き方はどうなの?」と問いあうことが、セクシュアル・ハラスメントの問題も、買春も、強姦も、家庭のなかの夫婦の性も暴力も、一緒になって解決していく道だと思うんです。
 男性は別に敵ではない。たった一種類しかいない人類の、男と女しかいないのに、それを女性に二種類あるかのように分けようとする。お互いに分かりあおうとするのが分けられてしまいそうになう、それを超えていかないと駄目なんです。
 私は沖縄の大きな課題として「慰安婦」問題があると思います。基地と戦争と性をつなぐ重要な問題です。沖縄という土地はペ・ポンギさんという「慰安婦」を強いられた女性が生きて亡くなった場所として、決して素通りしてはいけないと思っています。なぜ「慰安婦」問題は出てくるまでに五十年もかかったのか、身内の死別で、やっと言えるようになった面もあり、儒教伝統の強い韓国も女性に酷い社会だと思います。死ぬ思いで発言したことを、マスコミがわあわあ騒いで、言ったことを後悔してしまうほどに辛い目に会う。韓国で会った元「慰安婦」の女性は、ワーワー泣きながら「言わなければ良かった、言ったって、何が変わる。散り散りになったら家族は元に戻らないし」と叫んだ。「過去」をしっかり閉めていた蓋を外してしまった、そのことで自分がますます苦しくなってしまったんです。五十年間、言わせなかったこの社会だから、女性たちが「さあ、名乗ってちょうだい。あなた方が名乗ることでもって、あなた方こそが、この社会のこの民族の主人公であるということを明らかにしたいのです」と呼びかけたのです。
 沖縄で一九九一年の三月一日に元韓国・朝鮮女性で「慰安婦」にされた女性たちの慰霊祭がありました。私たちは日の丸に対して複雑な思いがありますが、韓国の女性たちは、その慰霊祭で韓国の旗を置き、その中心に向けて菊の花を百本置いたんです。死んでいった彼女たちのことを思いながら、花を旗の真ん中に置くことを通して彼女たちこそが韓国の歴史の中心であることを、いま生きている私たちや彼女たちがどれだけ歴史のなかに位置づけ、そこに繋がる今の問題をどれだけきっちりと見ていくか、その決意を表していたんです。
 売買春の問題は、従来は特殊な女の問題とされていました。それは強姦と労働の問題、セクシュアル・ハラスメント、そういうところを見ると、女性の置かれている状況が根っこで横一線で、鎖に繋がれているようになっている、強姦も売買春もセクシュアル・ハラスメントも皆つながっている。各各を本気で取り組んだら、全部の問題に波及してくる。だから買春問題に取り組まなくても、ちゃんとこの繋がりが分かれば、じゃあ私は夫と妻の関係をきっちりさせようとか、夫が東南アジアに行くと言ったら、家族旅行にしようとか、旅行の仕方一つ変えるのでもいいと思うんです。
 ある意味では男たちも男らしさのオリに追い込まれている。社会の仕組みがそうさせるものだから。でも、かかわる相手との関係性としては、相手にもその男らしさ、男の状況の檻から抜け出てほしいというラブコールというか、言っていきたいですね。自由に対等にかかわれる、話の通じる妻との関係がある人は、セクシュアル・ハラスメントはしないと思います。」



引用以上
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by okabar | 2012-09-16 02:28 | らじお
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