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Kぽっぴんナイッ!vol.2

今週、2月3日は、お待ち兼ね、Kポップナイトの2回目をします。
大阪からはるばるKポップDVDジョッキーが!
みんなでKポップDVDを見て躍り狂いましょう。

※でも、決して期待しすぎないように。ただ単に音楽番組のビデオを観るだけです。DJのMCは少し面白いかもよ。あと東京から、別のDJも来るそうです。

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by okabar | 2011-01-31 23:26 | おしらせ

愛は表面に張りつめてきみを濡らす(塚本佳紹さんパフォります)

紙芝居の衝撃いまだ止むことなき今宵、
みなさんいかがお過ごしでしょうか。
メラメラもえてる時間でしょうか。

ところで「P.S」とは「Platonic Sex」の略でしょうたぶん。
プラトン的な性交とはつまり、うさぎの耳と血を流す人魚の、不可能であるがゆえに美しい交わりのこと。「愚劣きわまる現代だからこそ」と言ったのはシモーヌ・ヴェイユですが、だからこそ、芸術はよりいっそう不可能な愛を目指して走るのでしょう。
とまれ昨晩の感動を言葉にするには、
せいりできることとせいりできないこととがあって、
まだまだ時間がいりそうです。


ポエアクの宣伝

というわけで、
今日は最近よくオカバーに来てくれる塚本佳紹さんについて書きます。
なぜなら、明日(29日土曜日)に、塚本さんがパフォーマンスするからです。
ポエアクというイベントです。


塚本さんをはじめて知ったのは去年の10月、奈良アートプロム(NAP)の時でした。NAPについては詳しく書くいとまがないので、こちらに出ているたくさんの記事をご参照ください。

★塚本佳紹さんの展示「愛と表面張力」★

ナップの数ある展示会場の中でもとりわけ個性的なアウラを放っていた場所に、カイナラタクシービルがあります。そしてこの会場でビルと溶け合い、かつビルを支えるかのようにして塚本さんの展示「愛と表面張力」はありました。
以下、その詳細について感想を書かせていただきます。

名前のとおりかつてはタクシー会社のビルであったカイナラは3階建ての古い建物で、各階に複数の作家さんが展示をされていました。
塚本さんの展示はまず、一階から二階へと昇る階段で、上っていく者たちを照らす光として現れました。プロジェクターで壁に向かって放たれた光、その光に私たちの顔が照らされるのです。
次に、二階のトイレ前に水を張ったボウルの入った箱が設置されており、横に赤いビー玉がたくさん用意されていました。壁には「玉をひとつだけ入れてください」と書かれてあります。この文章、いまではその詳細を思い出すことができないのですが、まじめな文体なのになぜかとてもエロティックでした。鑑賞者は赤いビー玉をつまみ、箱の中のボウルに入れます。この時、ボウルに張られた水で、ゆびが濡れました。そして足のスイッチを踏むと、箱の中のボウルが下から照らされて、赤い玉たちが輝くという仕組みになっていました。
さらに三階には、同じ位置に、今度は「玉をひとつ取り出してください」と支持がありました。私たちは支持にしたがって玉を取り出しますが、つまんだ玉は、今度はビー玉ではなくやわらかい素材であって、わたしたちをぷにゅっと驚かせてくれます。最後に、その玉を横の洗面台に入れると、玉は水の中に消えてゆき、赤く見えた玉が実は透明であったことに鑑賞者は驚かされる、という仕組みになっていました。

以上の展示からあえて言葉を導出するならば、
①愛は来る者を拒まず、すべての来訪者をやさしく照らし出す
②愛は入る者を拒まず、すべての鑑賞者の玉によって溢れる
③愛はなにも所有せず、与えるようにしてすべての指を濡らす

となるでしょうか。
最後の展示で、わたしたちが得たと思った玉は次の瞬間には消え去ってしまい、ただ濡らされた指だけが一連の行為を覚えている、そんな不思議な愛に溢れる作品であったことが思い出されます。このひとに会ってみたい、そう思わせる展示でした。

●愛について

ところでカール・ヤスパースはその美しい著書『ニーチェ』のなかで、正義と愛について次のように書いています。

もし正義が愛を欠くなら、そればかりでなく愛を棄てるなら、正義はそれ自身において疑わしくなる。・・・もちろんニーチェは盲目的な愛の過重評価を警戒している。すなわち愛は明白に正義よりも愚かである。しかしまさにそのために益々すべての人に対して一層好感を与えるのだ。愛は雨のように公平である。

おそらくこの本の中でもっとも美しいであろう、
「愛は雨のように公平である(Liebe ist unparteiisch wie der Regen)」
という言葉がここに現れます。ただしこの比喩は、愛は正義に比して愚かである、という意味で使われているのです。ここはとても重要です。つまり、正義は「やる気のない者はグラウンドを去れ」と命じる体育教師のように冷厳ですが、愛はそうした判断抜きに、来る者を拒まず受け入れ、すべての者を濡らす雨なのです。たしかに愛は悪人(貧乏人、乞食、娼婦たち)の上にも恵みの雨を降らしますが、あろうことか善人(金持ち、坊主、体育教師)の土地をも例外なく潤します。また雨はベンツを汚すこともしますが、あろうことかブルーテントにも降り注ぐわけです。

しかし、この愛の愚かさにこそ、わたしたちは苦しめられつつも救われているのではないでしょうか。正義は時に、あまりにも厳しすぎます。愛を欠くならそれはたちまち疑わしくなる、とはそのとおりだと思います。だからこそひとは愚かさを知りつつなお愛することを恐れないのです。

塚本さんの展示は、来る者を拒まず、鑑賞者に作品の成立を委ねているという点で、正義よりもはるかに愚かな愛に満ちています。けれども、だからこそ、わたしたちのゆびは濡らされたのでしょう。受け入れるようにして濡らすこと、それがプラトン的な愛の形なのかもしれません。

その塚本さんが、明日(29日)、パフォーマンスをするのです(やっと本題)。さらに「いわしのつみれ」を作るのです。これはもう、行くしかないですよね。

ところで体育が一律に「美しい身体」を求める正義の授業であるならば、すべてのパフォーマンス芸術は必然的に反体育的であるでしょう。パフォーマンスが体育に反対するためにある、というのではありません。わたし固有のこのからだを、なんの目的のためでもなく、わたしがここにあるということの表現として、さらけだすこと、それはいやおうなく、反体育的であらざるをえない、ということです。正義を押しつける体育を前にして、身体は中立であることなどできないのです。体育の授業って、いちばんお腹痛くなりませんでしたか。わたしはすね毛が濃かったので短パンはくのがとてもいやな時間でした。

パフォーマンスがたとえ、体育よりもはるかに愚かだとしても、それが愛の授業である限り、わたしたちは今後も、きっとこの愚かな授業に参加したいって思ってるはず。
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by okabar | 2011-01-28 23:50

無謀企画!『夜ふかし市』vol.2行ってから来た人は一杯無料

1月27日(木)は、第一回目をおかばあでやりました、
『夜ふかし市』vol.2が100000tさんにて開催されまする。
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今回も当初はおかばあでの開催がありそうだったのですが、諸事情にて無理になりました。
少しいじけますが、便乗企画をして気分転換だ。

つまるところ
「夜ふかし市に行って何か買っておかばあに来たら一杯無料」
をしちゃいます。

買ったものを見せなさい、それが証明。
税関の検査のように、なぜかフレンドリーではないのでご安心ください。
ところで、チラシのイラストについて。
とあるお客さんが「子どもの絵ですか?」と言ってましたようですが、そうではないですよ。
ここで店員Tがつぶやいているように、そういうことです。

☆ニュース☆
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ふや町映画タウンに行った二人がやっている映画クラブの名前が決まりました。
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これからの展開に、大いに期待してます。
それにしても店員Tのブログ更新の情熱はすばらしい。
表現する欲望がでてますね。
わたしもそろそろコラム的なものを書こう書こうと思ってなかなか書けない。
部屋のそうじと同じですね~。
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by okabar | 2011-01-24 02:50 | おしらせ

ふや町映画タウンが復活した件について~

地図をひろげてオカバーと100000tを線で結んだときにその線上に伸るか反るかするようにして第二ふや町ビル二階「ふや町映画タウン」はある。

先日、「ふや町映画タウンが復活したらしい」というKポップDJからのデマゴギーを鵜呑みにしつつ友と共に麩屋町二条下がるは「ふや町映画タウン」に行って参りました。そしたら本当に復活していました。

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さっそくわたしはエリック・ロメールを、友はヴィクトル・エリセを借りました。この奇跡のような日、ビデオはカイロのようにホカホカとわれらの鞄を温めておりました。


ロメールの会話劇を見るといつもこう思います。
いい映画とは五月の街路のようだ、と。
つまりそこでは「誰もが語るべきことをもっている。では何を?それはたいして重要ではない。語るということが、語られるものにまさっている」から。

そこではすべての光が、フィルムの表面をやさしく撫ぜる風のようであり、そこではすべての音が、街路でうたわれる春の歌のようです。


ふや町映画タウン、
ありがたい街路として、
今日もそこに、
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by okabar | 2011-01-22 12:21

窓の外は雪



引越しの日の窓の外は雪で
ぼくらは厚着で笑うこともなく
もくもくと作業して、うんこして
猫とヒゲの眼鏡に別れを告げ
レンタカーで京都を去りました


もしも
そうだもしも、だ
もしもぼくらがあのひ
あつぎでなかったらば、だ
ぼくらはうすぎで、わらっちゃったかもしれない
うんこ、もらしちゃったかもしれない
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by okabar | 2011-01-15 20:27 | おしらせ

移民のつどい(1月6日)

新年あけまして、初okabarは、「引越しBAR」でした。

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イギリス人も納得。
飾りつけなんかしちゃってかっこいい!気分が高まります。

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去り行く君へ。
チタチタ喫茶のむっちゃんにひっこしcakeをいただいました。とてもおいしい。よろしい。

引越し祝いを持ってきてくださったかたがた、ありがとうございました。
引っ越し先でも、のびのびと過ごしてゆきたいです。

☆ニュース☆
OKABARがメディアの取材を受けました。
ひとつは毎日新聞のミニコミ。もうひとつはおそらくアラサー向けの関西情報誌。
掲載されたら、お知らせします。
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by okabar | 2011-01-12 13:06 | ばーのようす

台北に降る雨はなにを濡らすのか(台北美術旅行記)

烏龍茶を買うために台北は頂好デパートまで行って参いりましたのは去る11月初旬のことになりますから、はや2ヶ月近くが経過してしまったことになります。遅くなりましたが研修旅行報告記をここに記させていただきます。ちなみに12月に行った横浜研修旅行については、寿合宿日記に少し書いていますのでちぇけら。ここで出会った幸田千依さんは昨年見た作家さんの中でも特に今後の活躍が気になる方でした。

GEISAI受賞者グループ展@カイカイキキギャラリー台北

さて台北報告です。
烏龍茶を買い終えて旅の目的を見失ったわたくしは街をぶらぶらと彷徨っていたのですが、そこで偶然カイカイキキギャラリーというのを見つけたのです。入ってみるとちょうどグループ展をしていたので見ることにしました。GEISAI受賞者グループ展というやつです。

詳しい説明ははぶきます。

エロスと芸術

ところで今回考えてみたいのは、エロスと芸術の関係です。
なぜかといえば、台北旅行を前後してちょうど読んでいたのが美術評論家ヨシダ・ヨシエによる「エロスの迷宮から」という文章だったからです(『ヨシダ・ヨシエ全仕事』にも所収)。

エロスについては少し説明が必要でしょうか。わたしの考えではエロスとはいわゆる「エロ」ではなく、広い意味での「生命力」みたいなものです。これに対して性的な表現を中心とするいわゆる「エロ」のことをエロティシズムと呼ぶことでここでは区別をつくっておきます。

つまり、ある表現にエロス(生命力)を感じるかどうかは、性的な表現であるか否かとは関係がないわけですが、ただ同時に、エロティシズム(性的なあるいは身体的な)表現は、エロスへと向かう途上にあってやはり特別な意味を持っているようにも思います。

ヨシダ・ヨシエ「エロスの迷宮から」

この文章は、エロスと芸術について考えるうえで大変参考になる名文なのですが、ヨシダさんはこう書いています。

人間固有のエロティシズムというのは、結局、制度や規範やタブーの抑圧と対応し、緊張しながら膨張しつづけている負の言語体系ではなかろうか。つまりエロスの形象化であるエロティシズムは、歴史的状況にたいする生命的反応だとみることができるのではありませんか。

また、終わりのほうでは次のように書いています。

一回性・交換不能の生はさまざまな歴史的状況に意識するにせよ、しないにせよ拘束されている訳ですから、生はそれにたいして、自由という、ある意味では不可能性に向けて、つねに羽ばたこうとするのでしょう。そこにわたしはエロスと自己表現との重要な接点をみる訳です。エロティシズムというのも、そのような解放への道のりの過程の屈折に富んだ反映だともいえないことはない。一応、家父長権力によって成立した文化の末端にいるわたしが、男と女のエロス表現の差異にこだわってきたのも、このような前提によってであります。
 そしてわたしの貧困な想像によれば、抑圧を内在化させてきた女性たちに、エロティシズムという言語体系のイニシアティブがうつることとおもわれます。


したがって表現としてのエロティシズムは、抑圧に対する解放の声だと言えそうです。ここで興味深いのは、エロティシズムの表現においては、女性に主導権がうつるだろうと語られていることです。この文章の初出は1977年ですが、「エロスを直視することをためらわない女性たちの出現」に対する、ヨシダさんなりの同時代的な応答と考えてよいでしょう。

カイカイキキ台北の感想

さてここで、「あっ」と思い出されたことがあります。わたしの見た「GEISAI受賞者グループ展」において明確にエロティシズムの表現を取り入れていたのは5名(美島菊名、はまぐちさくらこ、西尾康之、國方真秀未、照沼ファリーザ)だったと思いますが、名前から判断するに、このうちの実に4名が女性なのです(たぶん)。ヨシダさんの文章からすでに30年以上たっている現在においては、また別の視点が必要なのかもしれませんが、しかし女性作家におけるエロティシズムの表現というテーマは現在もなお重要な切り口であるように思うのです。この4名のうち、幸運にも美島菊名さん、はまぐちさくらこさん、照沼ファリーザさんの3名には直接お会いして話を聞くことができましたので、以下、作品について少し感想を書きたいと思います。


美島菊名さんの展示

いぜん若手アーティストが討論するというある番組に美島さんも出ておられました。なので美島さんのことはその番組を見て知っていました。口ベタなのか全然発言できていなかったので面白そうな人だなと思っていましたが、やはり面白い人でした。美島さんのはすべて写真作品で、ひとりの少女をモデルにしてそこにアレンジを加えるという手法で作られています。ネット上でも作品が見れますが、本人いわく、できるだけデジタル加工はしたくないとのことで、合成写真ではないというところが、彼女の作品を観るうえでポイントになりそうです。美島さんの作品は、「現実」を少し補完してやることでそこに本当の現実を写し出している、そんな印象を持ちました。大切なことは目に見えない、じゃないけれども、わたしたちが普段みている現実というのは、常になんらかの限界によって隠されているわけです。たとえば少女の鞄の中が赤い林檎でぱんぱんになっていることを、わたしたちは知りません。あるいは彼女の胸には花が咲いているということも、わたしたちは知らないわけです。美島さんの作品は、いわば可視化されていない本当の現実をファインダーに写し取る作品だといえるでしょう。その際、少女の欲望が赤い林檎や胸部に咲いた花のようにエロティックな形をとって現れているのは、偶然ではないはずです。隠されているからこそ、その欲望を表に引き出してあげたい、そのような視線を、美島さんの作品とその人となりから感じることができました。余談になりますが、開催期間中、美島さんの尊敬する写真家の方が展示を見にこられたそうで、そのことに感動した美島さんの目を、毎日のように降る台北の雨が濡らしていたことも鮮烈な印象として残っています。

はまぐちさくらこさんの展示

さくらこさんの展示は何度か見たことがありますが、この人の作品においてもエロティシズムは欠かせないテーマであるといえるでしょう。「はだかちゃん」とか「ぱぱのぱんつ」とか、わかりやすいものから、特にシリーズ化はされないだろう無数の小さなエロキャラやエロ表現が、さくらこさんの絵の中には点在しています。さて今回のカイカイキキの展示でいえば巨大なアクリル画が、入って正面の壁に展示されていて存在感を湛えていました。その大きな絵の中には大小無数の物語が共存しており、夜の闇も昼間の太陽も同じ画面の中にあります。以前このブログで線について書きましたが、さくらこさんの絵を見るときには線だけでなく物語りにも、意味から無意味へと逃げていく自由な戯れを感じます。エロティシズムのことでいえば、ひとつの絵の中にたくさん「SEX」という文字が散りばめられていたり、はだかのおとこのこたちが並んでいたり、子どもが描くようなちんこの絵があったりするわけですが、それらがなんらかの目的に奉仕することなく自由に遊んでいることが見ていて面白いのだと思います。最近の作品で特に感動したのは0000ギャラリーのショップに売られているマンガ作品で、登校拒否18年のキャリアを持つはだかちゃんが主人公なのですが、はだかちゃんを見ていると、やはりこれは絵画における全裸パフォーマンスではないか、と思ってしまいます。つまりダダカンさんと同じく、解放に向けて走る(というか遊ぶ)すがたがそこにあると。とりわけその戯れはキャンバス画よりも紙きれのうえで楽しく舞っているようにも思われるのですが、その話はまた別の機会に書きます。本人と話してみて印象的だったのは、彼女が必ずしも「かわいいもの」や人間の明るい部分だけを描こうとしているわけではなく、同時に暗い部分や「へんな」ところも描こうとしているということです。エロスに関していえば、それはつねにその逆にあるタナトス(死)を抱えているわけで、わたしがさくらこさんの絵に魅かれるのも、光と闇の両方が、というかむしろ闇の部分が、深さを目指して暗く輝いているからではないか、とも思いました。

照沼ファリーザさんの展示

カイカイキキのギャラリーを順番に見てまわっていると、裸の女の子をモデルにした写真作品がありました。わたしはすぐに、「ああ、男性カメラマンが女の子をモデルにして撮ったんだな」と思いました(先入観とはおそろしいものです)。後でファリーザさんとお話する機会があって、そこではじめて、その作品がファリーザさんの作品で(名前ちゃんと見てなかったですすみません)、しかもなんとご自身をモデルにして撮られたものだと聞き驚きました。自分の裸を作品にするというのはこれは並大抵のことじゃないぞと思ったわけです。それでダダカンさんの全裸パフォーマンスの話をしてみたのですが、「AVみたいですね」と返事がかえってきました。ここでもわたしは即座に「いやAVとは違うと思いますけど(笑)」と答えてしまいました(先入観とはおそろしいものです)。よく話を聞いてみると、なるほどAV作品においても意識的な出演者はいるわけで、作品にもよるとは思いますが、解放を目指したパフォーマンスといえるのかもしれません。AVにおいては消費流通の問題や間にどのような人物・会社が介在するかという難しさもあるかと思いますが、たしかに森下くるみもその著書の中で「解放」という言葉を使っていたなと後で思い出しました(ちなみに最近出た『らふ』という対談集も面白くて、晶エリーさんがいいこと言ってました)。話を伺ってみて、ファリーザさんには「とってもかわいいもの」と「それを汚したい」という対立するふたつの欲望があることがわかりました。そこで思い出したのが「聖なる弁証法」という言葉です。もともとはバタイユの用語で、岡本太郎が好んで用いていたようですが、これは普通の弁証法とは違い、聖なるものに別のものをぶつけるという、その破壊の衝撃や運動そのものを目的とした弁証法なのです。そういえば、太陽の搭に全裸で走りこんだダダカンさんの行為も、聖なるものにたいする涜神であったといえるかもしれません(ただしわたしはダダカンさんこそ聖なる存在だと思ってますが)。ファリーザさんに「聖なる弁証法みたいっすね」と言ってみたところ、「そうかもしれない」とおっしゃっていただけました。この人は、今回会った作家さんの中でも最も意識的な人で、最初はキラキラした人がいるなーと思って近寄り難かったのですが、話してみるとすごくいろいろ考えておられる方で面白かったです。女性ファンが多いことも特徴で、実はオカバーでも何人かファリーザさんが好きだという女の子に会いました。本人もキラキラでしたが、彼女のブログもキラキラしています。

おしまい

さて、三人の女性作家について書きましたが、それぞれの作家・作品についてやはり「解放」がひとつのテーマになっているような気がしてきませんかねえ。もちろん芸術においてはエロス(生命力)を表現する際に必ずしもエロティシズムに依る必要はありません。例えば台北に降る雨だって、街路に生える樹の根っこだって、エロスを感じさせる時があるわけです。しかしエロティシズムに注目して、現在を生きる芸術家やその表現を見てみると、今まで見えてこなかったなにかが見えることも、あるのではないかと思うわけです。

どうやら台北の雨に濡らされていたのはわたしのおめめだったようです。
おあとがよろしいようで。
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by okabar | 2011-01-07 16:12 | おしらせ

1月6日は引越しBAR

新年明けましてオメデトウゴザイマス。
2回目のあいさつですが、これはブログを書いてる人が二人いるからです。

さて

謹賀企画
「引越しBAR」
1月6日
にやります。
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なぜなら、店員とてんちょうがあいついで引越しするからです。
念のため、OKABARは引越ししないですよ。

さて、引越しBARのイベント概要はというと

・店員が引っ越しそばをカウンターの中で食べます。見学可。
・引越し祝い持って来た人は一杯無料!です。
ただし荷物になると困るのでズワイガニとかイクラとか、その場で食べられるもの歓迎。
・なんとなく引越しBARという名前をつかってみたかった。
・1月27日にマルヒ企画があるかもしれなかったのだが、それが流れたためイベント気分をだしてゆきたい。
・1月16日(日)にてんちょの引越しをするためのお手伝いさんを募集したい。
・めずらしく紹興酒をあける!かもしれない。
・たまにはソフトドリンクですごいのをだしたい。ぶどうジュースとか。

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という感じで今年もよろしくお願いします。
おまけの写真。
こんなことあったベルリンでの出来事@Sバーン。
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by okabar | 2011-01-04 23:34 | おしらせ

新年さいしょは詩であいさつを

   

    もはやそれ以上
                           黒田三郎


もはやそれ以上何を失おうと
僕には失うものとてはなかったのだ
河に舞い落ちた一枚の木の葉のように
流れてゆくばかりであった

かつて僕は死の海をゆく船上で
ぼんやり空を眺めていたことがある
熱帯の島で狂死した友人の枕辺に
じっと坐っていたことがある

今は今で
たとえ白いビルディングの窓から
インフレの町を見下ろしているにしても
そこにどんなちがった運命があることか

運命は
屋上から身を投げる少女のように
僕の頭上に
落ちてきたのである

もんどりうって
死にもしないで
一体だれが僕を起してくれたのか
少女よ

そのとき
あなたがささやいたのだ
失うものを
私があなたに差上げると



※『黒田三郎詩集』(日本の詩集16、1973年、角川書店)より

この詩集、近所のカライモブックスで見つけてもらったんですが、
この詩の、特に後半はすばらしいですね。
今年もよろしゅうに。
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by okabar | 2011-01-03 22:42 | ばーのようす