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忘れっぽい天使(3月23日)

先日DOMMUNEにて配信されたフィッシュマンズのライブで演奏されていた「頼りない天使」もよかったけれど



パウル・クレーの「忘れっぽい天使」もいいですね。

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店員Tが黒板に書いた落書き!

4月21日(木)は、こんな感じで「黒板を埋め尽くすナイト★」をやりたいなと思っている。
ご期待ください。

クレー展が5月15日(日)まで京都国際近代美術館でやっているようですね。
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by okabar | 2011-03-30 16:15 | ばーのようす

今週は、塚本さんがパフォーマンスします。

今週31日は、塚本佳紹さんがパフォーマンスをしてくれます。
「慈愛と表面張力」です。

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パフォーマンスでは、赤いビー玉を手渡し、
震災への募金を募るということです。
お楽しみに☆
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by okabar | 2011-03-29 08:19

京都中のひま人よ集結せよ


本日3月17日(木)

「反原発避難BAR」

をします!

とにかく情報が多すぎて
もともとTVを持っていないわたしはそれも見てないのに、インターネットがしんどくなっていますが
こういうときこそ避難場所へ移動して喋りましょう。

京都はいつもの日常が繰り返されていて、呑気に思いますが、呑気になれる状況、はそれはそれとして受け入れてしまって、そのうえで何か生み出せればいいな。

OKABARらしく、れいの募金箱も設置しようと思います。ドイツ作戦で使ったときと同じ手段。
日本赤十字社に送る予定です。

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先週むっちゃんよりいただいたさしいれ。精巧さにオランダ人がびっくりしてました。
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by okabar | 2011-03-17 12:05 | おしらせ

世界じゅうの ひきこもりたちよ 団結せよ

 「ノー・フューチャー」。パンク文化はこう宣言した。それと同時に、ボローニャやローマの創造的な蜂起行動はこう宣言した。「未来なんてありゃしない」。ぼくたちは依然としてそこにいる。戦争によって、意識や生存に適した生への希望が破壊されているあいだは、ぼくたちは依然としてそこにいる。依然として、77年運動の敗北がぼくたちを置き去りした、その地点にいるのだ。
 「ノー・フューチャー」は、当時と同じように、もっとも先鋭的で、もっとも真実を語っている状況分析のままでありつづけている。
 そして、絶望がもっとも人間的な情感のままでありつづけている。

                                       by ビフォ



この地震によって明らかになったことがあります。
政府の発表やテレビによる情報なんかよりも、インターネットを通じた自律的ネットワークのほうがはるかに頼りになる、ということです。
誇りに思っていいことは、悪意ある情報よりも、真摯な情報による連帯の意識が圧倒的に優位であることです。

●ビフォ『ノー・フューチャー』(2010年、洛北出版)

オカバーが紹介された『Meets』3月号にはまた、洛北出版から出ている『ノー・フューチャー』という本も紹介されています。
オカバーとこの本の出会いが偶然でないのは、この記事を見ればわかります。ふたつの記事で共通して、「素人の乱」が登場しているのです。つまり、この本とオカバーが目指すところは同じこと、わたしたち自身による、自律的ネットワークを創っていくことなのです。

ぼくたちは若者プロレタリア階級である

この本で著者のビフォは、「若者プロレタリア階級」という言葉を使っています。若者プロレタリア階級とは、もはや労働に生きることの意味を見い出さず、労働をできる限り避け、自由な時間に豊かさを見いだすようになった若者たちのことです。そしてそんな若者たちの出現こそが、77年からはじまる世界の新たな趨勢だというのです。

自立とは、少数派になること

ところでぼくたち若者プロレタリア階級は、日々、「自立しろ」と言われています。しかし「自立しろ」とは何を意味しているのでしょうか。それは結局のところ、「とにかく働け」という意味でしかありません。要するに、あまりにも貧しい命令なのです。

ジルとフェリックスによる重要な哲学書、『千のプラトー』の文庫版上巻221ページには、少数派になることこそが自立(オートノミー)である、と書かれています。ここで少数派とは、数の問題ではなくて、貧しい命令に従わない者たちのことです。「フリーター」や「ニート」など、若者プロレタリア階級を標本化するために様々なレッテルが使われますが、重要なことは、ぼくたちはもうすでに自立的な生を生きはじめている、ということなのです。

日本という先端の場所

「世界じゅうのひきこもりたちよ団結せよ」とは、この本の、日本の読者に贈られた文のタイトルです。彼はここで、日本こそが(良い意味でも悪い意味でも)、未来なのだと言っています。それは単に科学技術の発達を言っているのではなく、高度に発達したコミュニケーション技術のもとで起こっている、労働の不安定化と精神的な葛藤という現象が、まさに現代日本において未来を表現しているからです。

そして、このような状況下で生き、働くぼくたちは、日々、愛を奪われています。
ビフォは書いています。


「ヴァーチュアル労働者たちにとって、自分が自由に用いることのできる注意力の時間がいっそう少なくなっています。というのは、彼らの注意力の時間の全空間を占拠してしまうほどまでに、彼らは大量に増えていく精神面の仕事に巻き込まれているからです。彼らの生、愛、愛情、情動へと捧げる時間がまったくないからなのです。ヴァーチュアル労働者たちは、セックスへの前置きとなる時間がないためにバイアグラを摂取するのです。」(261ページ)


能動的に離脱すること

そして、このような状況から離脱する者たちこそ、「ひきこもり」と呼ばれる人たちなのだ、とビフォは言うのです。したがって、ここに驚くべき発想の転換が示されるわけです。「はたらけ」という貧しい命令に従わないこと、そんな世界から離脱すること、それこそが自立であるなら、ひきこもることこそ、自立へと向かうひとつの運動だというのです。

ビフォは言います。「ひきこもりをめぐる日本の経験のなかには、何よりもまず、孤独や苦悩のようなかたちで表現される自律性への欲求が働いていると思います。ひきこもりとは、離脱という世界規模で起こる運動のひとつの前衛です」。

ぼくたちは誇りを持って生きてよい

この国で生きるぼくたちは、誇りを持っていい。
それは、この日本という国が、「未来なき世界」(セックス・ピストルズ)という意味での先端であるにもかかわらず、だからこそ、そのもとで生きる若者たちの自律的な繋がりが生まれているからです。この土地が、放射能で汚れ、政治は腐敗し、テレビでは天皇が笑い、タレント知事が唾を飛ばし、民族差別が行われていても、それでもぼくたちが離脱という形で自立していく限り、この誇りは失われません。

生きること、それはなによりもまず、貧しい命令に従うことなく、
自分自身の欲望に耳を傾け、新たな生を創造していくことです。
だからこそぼくたちは芸術を必要とするし、友人を愛するのです。

これからも、オカバーをよろしく。
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by okabar | 2011-03-13 23:42 | よくぼう

地震情報をまとめているブログ(「イルコモンズのふた。」)

情報は大量に流れていますが、混乱するばかりですね。
地震情報について、比較的更新頻度が高く、
信頼のおけるイルコモンズのブログを紹介しておきます。

「イルコモンズのふた。」
http://illcomm.exblog.jp/
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by okabar | 2011-03-12 22:39 | おしらせ

言葉によらない批評は可能か。(塚本っさんとの対話から)

ところで批評ってなんでしょうか。
というのも、こないだ塚本さんがオカバ-に来た際に、
「作品が同時に批評であるようなものをつくりたい」
とおっしゃっていたからです。

これに対してわたしは即座に、「でも批評って言葉だから、言葉を使わずに批評であるって難しくないですか」と答えました。

●瀧口修造とアンリ・ミショー

それで帰宅後、モンモンとした気持ちで『ヨシダ・ヨシエ全仕事』という本を読んでいたのですが、そこに詩人の瀧口修造がある座談会(1960年)で語った速記録が引用されていたんです(下線を引いたのはわたし)。


「私もこの頃、現在の批評というものについて懐疑的になっています。今日の造形芸術について、そこで、何が行われているかを説明する用語がいかにも貧弱なのです。印象主義や、フォーヴィズムを説明したその同じ用語で、抽象絵画や超現実主義の解明が出来るかどうかということです。現在の美術批評家の書いているものの多くは単に交通整理したようなものです。文章になおすことが問題ではなく、感じとることが必要なのですが、一体、本当に何かを感じているかどうか、という点で非常に懐疑的です。


瀧口さんはつまり、
批評において大切なのはまず感じることだ、
と言っているわけです。
続いて次のように語っています。


「そして、それを感じた場合でも、コミュニケーションということが問題です。アンリ・ミショオは、いわゆる画家的な画家ではありません、優れた詩人である。彼は詩を発想しても、言葉による今までの詩は不自由であるというのでそれをデッサンによって表現しているのです。絵画に興味をもっているのではなく、デッサンに興味を求めているのです。本来、文字も、絵画も同じ根源から出発したものです。文字も線、デッサンも線ですが、それがどこかでわかれて来たのです。ミショオのデッサンをみると、あれも一つの言葉であるという気がします。そして、言葉の媒介をかりないで、クリティックなものを行うことが出来るのではないかと思います


恥ずかしながらわたしはアンリ・ミショーを知らなかったのですが、ウィキペディアで調べてみると、でてきました。彼の経歴を読んでみて面白かったのは、最初は絵画を嫌悪していた彼が、クレーやエルンストの作品に触れ、絵の制作に目覚めたという点です。

●パウル・クレーと線の理論

クレーについてもわたしはこれまでよく知らず、「忘れっぽい天使」を携帯の待ち受けにしていた程度だったのですが、どうも彼は線の理論家であったようなのです。そのこと自体は周知の事実なのかもしれませんが、さらに、最近になって河出文庫に入った『千のプラトー』を読んでみると、著者のジルとフェリックスが、クレーの線の理論に大きな影響を受けていることがわかりました。

とはいえ、せっかく今日からパウル・クレー展がはじまるので(京都国立近代美術館)、クレーについて詳しくはまた今度書きますね。

ただ、ひとつだけ。
あなたのデッサンは「幼稚」だと言われてクレーは怒りを爆発させたそうですが、彼は反論として次のように書いているんです(引用は『千のプラトー』11章注の49より)


「私のデッサンが幼稚だという俗説は、私の線描作品に由来するのだろう。私が線描で試みたのは、たとえば一人の人間という、なんらかの事物の観念を、線という要素の純粋な提示に結びつけることだった。人間をありのままに描こうとしたなら、当惑をよぶだけの雑駁な線の絡み合いが必要となったはずだ。その結果生まれるのは、要素の純粋な提示などではなく、もはや前後の別もわからぬほどの混乱でしかなかったろう。」


クレーが表したかったのは、人間のあるがままの姿ではなくて、「あるかも知れない」姿だったのです。つまりクレーにとって線を描くことは、見えるようにすることであって、見えるものを表現したり再現することではないわけです。したがって彼は「子どもっぽく」描いているわけでも、子どもの真似をしているわけでもなく、線を描きながら<子どもになっていく>のです。

クレーの絵に触発されたミショーが紙の上に線を走らせ、その線に批評を見る瀧口修造はまた、クレーについて多く書いた詩人でもありました(『パウル・クレー論集』佐谷画廊)。そしてまた線についての重要な理論書でもある『千のプラトー』にクレーとミショーが引用されているのも、ある意味必然かもしれません。

●ふたたび、批評とは

話が線だけに脱線してしまいましたが、今日の日本では現代美術に限らず芸術的なあらゆる分野において、批評が衰退しているようです。現在ではもはや、批評に不満を持つ以前に、批評そのものが不在である、というわけです。

ただし、これは批評をある一部の専門家(評論家)に任せる場合の話であって、万人が詩を書くように、万人が批評を書けば、あるいは描けば、状況は変わっていくはずです。

その際、瀧口修造の言葉に立ち返って確認するならば、求められているのは分析する力と指摘する力ではなく、感じる力と詩的な力であるということです(このことが取り違えられなければ、批評が表現者を傷つけるといった不毛な現象も減少するはず)。

そして、点ではなく線を引くこと、いま見えているものに縛られた世界を解放する、流れるような逃走線を走らせること。詩と絵画の間にある障壁を取り去ることが急務だと語った瀧口修造はまさにそのために、詩人に対して呼びかけているのです。ただしこの呼びかけは、万人が詩人であれ、という願いと共に受けとめられてはじめて輝くはずの・・・


ぼくは詩人たちがもっと造形の世界に接して、書いてほしいと思う。絵画の批評といえば、すぐ技術的な品定めをしようとするから、足を出すし、画家もはた迷惑をします。詩人としての感受性を存分に発揮して、絵の世界を彼独自の言葉に移して書くようになれば、絵の鑑賞の世界を深めることになり、画家も大いに鼓舞されるでしょう。深い観賞のないところに芸術の進歩もないわけです。


瀧口修造『今日の美術と明日の美術』(1953年)より
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by okabar | 2011-03-12 01:26 | よくぼう

仙台の友人へ愛を叫ぶ

さあみなさん
いまこそ
ちいさなこえで
さけぼうではないか


受験FUCK!
受験社会FUCK!
おかばあLOVE!



※おかばあは受験社会を生きる若者の苦しみを喜びに変える場所です。
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by okabar | 2011-03-05 00:10 | おしらせ

ライブのリハーサル(2月24日)

ちょっぴりスケベで、マジメなアーティスト、塚本さんのライブパフォーマンス!のリハーサル。

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みんな同じ方向見ているのが面白いですね。
いつか、OKABARで本番をします。映写機と漂白剤とアルコールを使ってあんなことしちゃいます。

かたや、ちょうど受験の前日で、京都大学の試験の付き添いで来ているお母さんが、娘のためにOKABARでお弁当を作っていました。受験ついでに不動産屋まわりもするとのこと。
自分が受験のときを少し思い出しました。
合格した暁には、OKABARに飲みに来るよう願っています。

★次回のゲスト★
先日、2月27日(日)「ユースシンポジウム 縁なき社会の若者の生き方」に出演しました。
分科会Cです。
3月3日に同じCのゲストの砂山真一さんと石川智規さんがOKABARに遊びに来ます。
ウラ話が聞ける!(かも)

そういえば、今週は3月6日(日)にトリペルでてづくり市もやってます。こちらでは、てんちょがまたまたおやつ売ります。
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by okabar | 2011-03-02 15:02 | ばーのようす