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友情バー(年賀バーの写真もあるよ!)

本日29日はオクバーがやっているんですね。
それを受けてOKABARは、KARAIMO BOOKSさんとの合同イベントをしようと思いました。

年末はハシゴ酒が最高!
つまり
オクバー→オカバーをするとOKABARで一杯無料!

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来店の際にKARAIMOのJくんから教えてもらった合言葉を言ってね!

あ、先週の年賀バーは参加者少ないながらも、満足のゆく内容でした!
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ありがとう。
写真の大きさが感謝の大きさ。一年間ありがとうございました。
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by okabar | 2011-12-29 12:51 | おしらせ

本日は年賀ジョBAR(12月22日)

本日のオカバーは年賀ジョBARです。

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年賀状(あるいはそれに準ずるもの)を持参の上、
オカバーにて執筆される方、
年賀状を一枚したためるごとに、
アルコールが一杯100円引きになります。
つまり普段は300円の酒が200円でのご提供となります。
なお、店員が葉書に夢中で仕事をしない恐れがありますので、
バーが大変混雑する場合がございます、
なにとぞご容赦ください。
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by okabar | 2011-12-22 12:22 | おしらせ

Rapper's Delight

OKABAR店員が同志社をオキュパイ!します。

明日になってしまいましたが、12月21日(水)に同志社大学で行われるイベントに参戦します。
なんとなくたまっているエネルギーを発散させたい。

さいきん「よくぼう」カテゴリーでは店員Tが執筆していますが、これはてんちょうによるものではないということです。てんちょうも「よくぼう」があるということに気づいた。

<Occupy DOSHISHA>
OKABARの久しぶりの野外イベント参戦。しかしお酒の販売はありません。
なんとお菓子の販売と、ラップを披露してしまうのです。
ちかごろバー開店時にラップの練習をしてたわけだ。

場所は同志社大学今出川キャンパス明徳館前!烏丸今出川の交差点より北へ。東側の門をまっすぐ進めば、わかります。
そばにツリーがありますよ。

イベントの時間は12時から20時を予定。
お菓子はお昼過ぎより販売予定。
ラップは18時すぎより披露予定。
しかし、どちらもぜんぜん準備ができていない。
よっしゃ、本番に強いところを見せたいものです。

お時間あれば、ぜひ。
飛び入りで、特技を披露するのもありかと思います。

★以下は、イベント主催者の公式ブログより転載したものです★


人類の共有財産である大学をすべての人に開かれたものとし、

社会的主張を大学空間に具現化するとともに、

大学当局に依らず学生独自で学生同士の繋がりを作ることを目的に、

12月21日Occupy DOSHISHAを行ないます。

ぜひご参加・ご協力お願いします。


★☆【ウォール街占拠から3ヶ月 Occupy DOSHISHA】☆★

日時:2011年12月21日(水)12:00~20:00(雨天の場合、翌日12/22同時刻に順延)

場所:M(明徳館)前広場(同志社大学今出川キャンパス)

内容:ライブ、演劇、NY報告、映像上映、スピーチ、コーヒー販売、クリスマスケーキ…and more

※出演者を随時募集しています。特技のある方はぜひこの空間で披露してください
※協力者(小道具作成、スタッフ)も大募集中。おもしろい小道具を作ってきてください

主催:ソラグラス  その他多数団体出演・協力

ブログは→コチラ
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by okabar | 2011-12-20 03:30 | おしらせ

詩誌『紫陽』24終刊号評 その4 小林坩堝「風狂」

小林坩堝「風狂 ―――地図があるならば破り棄てろ即座に」

小林坩堝氏の詩は、これまでいくつか読んで来たが、どれも精神の凝縮された作品で、わたしには難しかった。しかし『紫陽』に投稿される作品はどこか軽快でもあり、この作品に至っては、散文の歩みからはじまって最後には強く風の吹き抜けてゆく、清々しい後ろ姿さえ見せている。媒体によって到来する詩の異なるゆえであるか、あるいは亀之助の背中がそうさせるのか。

文中には尾形亀之助の詩集『障子のある家』からの引用があり、「風狂」は亀之助に捧げられたそれ自体が吹きすさぶ運動体だ。本文の紹介の前に、尾形亀之助について少し。去る10月に仙台を訪れる機会があったのだが、訪仙の一番は尾形亀之助の詩集(現代詩文庫)との出会いであった。マゼランにて購入することができたのである。ここでこの詩集を手にしたのは、もちろん小林坩堝氏の「風狂」を読んでいたからだ。それまでわたしは亀之助を知らなかった。

現代詩文庫に所収されているまずは『色ガラスの街』から読み進む。
わたしはたとえば八木重吉の短かな詩が好きだ。


おほぞらを 
びんびんと ひびいてゆかう

             (八木重吉「ひびいてゆかう」)


路をみれば
こころ おどる

             (八木重吉「路」)


尾形亀之助の詩集にも、短詩は少なくない。



私が煙草をすつてゐると
少女は けむいと云ひます

            (尾形亀之助「煙草」)


女さえ見れば色欲を起す男は
或る日とうとう女に飛びついた
――― が

搭のスレートを二三枚わつただけですみました

            (尾形亀之助「風のない日です」)



重吉と亀之助の詩、どちらも素朴で、短いのであるが、なんだろうか、なにかちがう。
なにがちがうのだろうか。
重吉の詩はどこか哀しげなのだ。上に引用した詩などはそうでもないが、
詩集全体からはこう言ってよければ「濡れた抒情」が伝わってくる。
しかし亀之助の詩は笑っているのだ。
それは詩を、己自身を、どこかでにっと笑つていはしまいか。


夕暮れの街に
幼い女の子が二人話をしてゐます

「私 オチンチン嫌いよ」と醜い方の女の子が云つてゐます
「………………」もう一人の女の子が何んと云つたか
私はそこを通り過ぎてしまひました

きつと――
この醜い方の女の子はちよつと前まで遊んでゐた男の子にあまり好かれなかつたのだ
そして
「私オチンチン嫌いよ」と云はれてゐるもう一人の女の子は男の子に好かれたために当然オチンチン好きなことになつてしまつてその返事のしように困つていたにちがひない

寒むい風に吹かれて
明るい糸屋の店先きに立つて話してゐる幼い女の子達よ
返事に困つてゐる女の子に返事を強ひないで呉れ給へ

          (尾形亀之助「夕暮に立つ二人の幼い女の子の話を聞く」)



風は
いつぺんに十人の女に恋することが出来る

男はとても風にはかなはない

夕方――
やはらかいショールに埋づめた彼女の頬を風がなでてゐた
そして 生垣の路を彼女はつつましく歩いていつた

そして 又
路を曲ると風が何か彼女にささやいた
ああ 俺はそこに彼女のにつこり微笑したのを見たのだ

風は
彼女の化粧するまを白粉をこぼしたり
耳に垂れたほつれ毛をくはへたりする

風は
彼女の手袋の織目から美しい手をのぞきこんだりする

そして 風は
私の書斎の窓をたたいて笑つたりするのです

                         (尾形亀之助「風」)


「乾いた抒情」とでも言おうか、その湿気を含まぬ「なにか」が、詩に広がりを与えているのではないか。が、しかし。好みではあるのだが。
読みすすめながら、「たいしたことないんじゃないか」という疑念が現れる。
つまり、なぜ亀之助の詩が現代詩文庫という形をとってまで今に残っているのかがよくわからなかった。
だがその疑念は、『雨になる朝』を通り抜けて『障子のある家』へと至ったとき、晴れる。
そして驚かされる。
その散文詩群のなかから、三十路を歩みはじめたきみのために、
まずは「詩人の骨」を引用しよう。


 幾度考へこんでみても、自分が三十一になるといふことは困ったことにはこれといつて私にとつては意味がなさそうなことだ。他の人から私が三十一だと思つてゐてもらうほかはないのだ。親父の手紙に「お前はもう三十一になるのだ」とあつたが、私が三十一になるといふことは自分以外の人達が私をしかるときなどに使ふことなのだらう。又、今年と去年との間が丁度一ヶ年あつたなどいふことも、私にはどうでもよいことがらなのだから少しも不思議とは思はない。几帳面な隣家のおばさんが毎日一枚づつ丁寧にカレンダーをへいで、間違へずに残らずむしり取つた日を祝つてその日を大晦日と称び、新らしく柱にかけかへられたカレンダーは落丁に十分の注意をもつて綴られたゝめ、又何年の一月一日とめでたくも始まつてゐるのだと覚えこんでゐたつていゝのだ。私は来年六つになるんだと言つても誰もほんとうにはしまいが、殊に隣家のおばさんはてんで考へてみやうともせずに暗算で私の三十一といふ年を数へ出してしまうだらう。
 だが、私が曾て地球上にゐたといふことは、幾万年かの後にその頃の学者などにうつかり発掘されないものでもないし、大変珍しがられて、骨の重さを測られたり料金を払らはなければ見られないことになつたりするかも知れないのだ。そして、彼等の中の或者はひよつとしたら如何にも感に堪へぬといふ様子で言ふだらう「これは大昔にゐた詩人の骨だ」と。


このふてぶてしさはなんだろうか。三十一など自分にとつてはどうでもいいという。最後には骨の話になって、しかもこれが詩なんだと、ずいと提出してくるこのふてぶてしさこそは、見習うべき詩人の背中なのだろうか。
続いて「後記 泉ちやんと猟坊へ」。

 
 元気ですか。元気でないなら私のまねをしてゐなくなつて欲しいやうな気がする。だが、お前達は元気でゐるのだらう。元気ならお前たちはひとりで大きくなるのだ。私のゐるゐないは、どんなに私の頬の両側にお前達の頬ぺたをくつつけてゐたつて同じことなのだ。お前達の一人々々があつて私があることにしかならないのだ。
 泉ちやんは女の大人になるだらうし、猟坊は男の大人になるのだ。それは、お前達にとつてかなり面白い試みにちがひない。それだけでよいのだ。私はお前達二人が姉弟などといふことを教えてゐるのではない。――先頭に、お祖父さんが歩いてゐる。と、それから一二年ほど後を、お祖母さんが歩いてゐる。それから二十幾年の後を父が、その後二三年のところを泉ちやんが、それから三年後を猟坊がといふ風に歩いてゐる。これは縦だ。お互の距離がずいぶん遠い。とても手などを握り合つては事実歩けはしないのだ。お前達と私とは話さへ通じないわけのものでなければならないのに、親が子の犠牲になるとか子が親のそれになるとかは何時から始まつたことなのか、これは明らかに錯誤だ。幾つかの無責任な仮説がかさなりあつて出来た悲劇だ。
 ――考へてもみるがよい。時間といふものを「日」一つの単位にして考へてみれば、次のやうなことも言ひ得やうではないか。それは、「日」といふものには少しも経過がない――と。例へば、二三日前まで咲いてゐなかつた庭の椿が今日咲いた――といふことは、「時間」が映画に於けるフヰルムの如くに「日」であるところのスクリンに映写されてゐるのだといふことなのだ。雨も風も、無数の春夏秋冬も、太陽も戦争も、飛行船も、ただわれわれの一人々々がそれぞれ眼の前に一枚のスクリンを持つてゐるが如くに「日」があるのだ。そして、時間が映されてゐるのだ。と。―――
 又、さきに泉ちやんは女の大人猟坊は男の大人になると私は言つた。が、泉ちやんが男の大人に、猟坊が女の大人にといふやうに自分でなりたければなれるやうになるかも知れない。そんなことがあるやうになれば私はどんなにうれしいかわからない。「親」といふものが、女の児を生んだのが男になつたり男が女になつてしまつたりすることはたしかに面白い。親子の関係がかうした風にだんだんなくなることはよいことだ。夫婦関係、恋愛、亦々同じ。そのいづれもが腐縁の飾称みたいなもの、相手がいやになつたら注射一本かなんかで相手と同姓になればそれまでのこと、お前達は自由に女にも男にもなれるのだ。


これが、1930年という時代に、大真面目に、刊行されていたのである。これは真面目に描いて未来である。最後に、未刊詩篇から「無形国へ」を。


 降りつゞいた雨があがると、晴れるよりは他にはしかたがないので晴れました。春らしい風が吹いて、明るい陽ざしが一日中縁側にあたつた。私は不飲不食に依る自殺の正しさ、餓死に就て考へこんでしまつてゐた。
 (最も小額の費用で生活して、それ以上に労役せぬこと――。このことは、正しくないと君の言ふ現在の社会は、君が余分に費ひやした労力がそのまゝ君達から彼等と呼ばれる者のためになることにもあてはまる筈だ。日給を二三円も取つてゐる独身者が、三度の飯がやつとだなどと思ひこまぬがいゝ。そのためには過飲過食を思想的にも避けることだ。そして、だんだんには一日二食以下ですませ得れば、この方法のため働く人のないための人不足などからの賃金高は一週二三日の労役で一週間の出費に十分にさへなるだらう。世の中の景気だつて、むだをする人が多いからの景気、さうでないからの不景気などは笑つてやるがいゝのだ。君がむだのある出費をするために景気がよい方がいゝなどと思ふことは、その足もとから彼等に利用されることだけでしかないではないか。働かなければ食へないなどとそんなことばかり言つてゐる石頭があつたら、その男の前で「それはこのことか」と餓死をしてしまつてみせることもよいではないか。又、絹糸が安くて百姓が困るといつても、なければないですむ絹糸などにかゝり合ふからなのだ。第三者の需要に左右されるやうなことから手を離すがいゝ、勿論、賃金の増加などで何時ものよやうにだまされて「円満解決」などのやうなことはせぬことだ。貯金などのある人は皆全部返してもらつて、あるうちは寝食ひときめこむことだ。金利などといふことにひつかゝらぬことだ。「××世界」や「××之友」などのやうに「三十円収入」に病気や不時のための貯金は全く不用だ。細かいことは書きゝれぬが、やがて諸君は国勢減退などといふことを耳にして、きつと何だか可笑しくつて苦笑するだらう。くどくどとなつたが、私の考へこんでゐたのは餓死に就てなのだ。餓死自殺を少しでも早くすることではなく出来得ることなのだ。



同じく1930年の作。これなどは亀之助の真骨頂ではないか。亀之助はダダカン氏と同じく良家の出だが、自ら身を堕したひとだ。ダダカン氏は、糸井貫二だった自分が、ある時からダダカンに「なっちゃった」と表現しておられたが、亀之助も同じく(というかそれに先んじて)、ダダカメに、「なっちゃった」のだろう。ここまで読んできて、だんだん若い小林坩堝氏が心配になってきた。ダダ坩になっちゃうの、なんてダ洒落を言いたいわけではない。「風狂」を読むと、坩堝氏もまた、亀之助と共に、地図を捨て、風をたよりに、「何らの自己の、地上の権利を持たぬ私は第一に全くの住所不定へ。それからその次へ。」と、吹かれ吹かれてゆくように見えるのだ。ひとりの若者の背中に、無事でいてくれ、とわたしは想い、はっと手を見る。
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by okabar | 2011-12-18 20:51 | よくぼう

詩誌『紫陽』24終刊号評 その3 貞和「俳言」

貞和「俳言」

わたしの最も(あるいは唯一といってもいいが)愛する現代詩人、藤井貞和氏が貞和の名で「俳言」という五つの行からなる五七五の作品群を書いている。

作品の転載はここでは控えておこう。どれも震災を、あるいは震災後を歌った俳言である。いまここで作品についてなにか意味あることは言えそうにない、が、このところ藤井貞和氏は五七五のリズムからなる作品群を相次いで世に問うているように思われるのだが、湾岸戦争詩論争の中で、口語自由詩たる現代詩と短歌定型との距離を問うたこの詩人の、どのようにして今現在は生成しているのだろうかと、そこがとても気になるところだ。これは批判ではない。言葉そのままに、どういうことなのだろうかと考えさせられる、ということ。
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by okabar | 2011-12-18 00:26 | よくぼう

詩誌『紫陽』24終刊号評 その2 駄々村の俳句

駄々村の俳句

ダダ貫氏の俳句の隣に共鳴するかのようにして掲載されているので、駄々村氏の俳句も紹介しておこう。


タンポポの綿毛にチンポポくすぐられ


タンポポとチンポポのハーモニーが良い。普通であれば躊躇なく良作としたいところだが、ダダ貫氏の作品のとなりにあることで、はからずもややかまととぶって見えてしまうのは私だけか。研ぎ澄まされキンキンとそそり立つ91歳と、チンポポくすぐられて喜んでいる若者とでは、やはり後者に胡散臭さを感じてしまわざるをえない。しかしこれは不幸な比較といったものであって、これひとつ独立した作品としてはなかなか素朴で良いと思う。タンポポの綿毛にくすぐられてむっくりと起きるほどの、それは敏感な先端である、ということだろうか。歳を重ねることでこのチンポポがどうなっていくのかが気になるところだ。
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by okabar | 2011-12-18 00:14 | よくぼう

詩誌『紫陽』24終刊号評 その1 ダダ貫の俳句

2011年8月20日、
8年間続いた小さな詩の雑誌、
『紫陽』(しよう)が、
終刊号を出してひとつの区切りを迎えた。
せっかくなので作品評も兼ねて紹介していこうと思う。


ダダ貫による俳句

今回、まず目に止まったのは先日(12月2日)91歳を迎えたばかりのダダ貫氏の作品である。以下にその全文を引用させていただく(失礼つかまつる)。


ボッ キせるペニスずるりとご入膣
やおら立つペニスきんきんご入膣


なんと美事に磨き上げられた二本の棒であることか。
ダダカンここに健在なりしと文字が伝えている。
研ぎ澄まされた言葉に無駄はなく、やはりここでも「おみごとです」と言うほかない。
一見無季俳句のようだが、「ボッキ」が“一年中”の季語なのだろう。

エロチシズムの極北である。
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by okabar | 2011-12-18 00:08 | よくぼう

せんだいノート

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先日、とある闇市にて山下さんより購入した『せんだいノート』、
この本には、ダダカンこと糸井貫二氏の大きな、そして素敵な、
とても、あとても素敵な、今まで見た中で最も美しい、あ素敵な、
大きな、大きな、とても、すごく、写真が数点掲載されています。
取材は言水へリオさん、
写真は今井紀彰さんによるものだそうです。


本屋さんで見つけたらぜひ垣間見ちぇけられることをお薦めします。
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by okabar | 2011-12-10 23:57 | おしらせ

ぐらむぶっくすのはなし

grambooksの話である。
grambooksといえば、
『肉体のアナーキズム』によって、
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その存在を、
はじめて知った、
出版社であるのだが、
調べてみたら、
『金と芸術 なぜアーティストは貧乏なのか』、
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なんていう、
翻訳本なんかも出ているし、
こないだ奈良の、
out of placeで個展をした、
寺田真由美の、
作品集なんかも出ている、
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あれ?けっこうすごくね?
とおもわずもらしてしまう、
出版社なのである。

そして、そのgrambooksから、
まもなく、詩集が出るのである。
新宿のカフェラバンデリアで、
ぐうぜん出会った、
長谷部裕嗣という男の、
詩集である。
その友人の、
岡田くんが出演している、
『朝からねっとり 不倫妻』を、
このあいだ、
初めて、
本町会館に行き、
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観たのだが、
これがなかなか、
よかったのである。

grambooksの話である。
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by okabar | 2011-12-08 13:24 | おしらせ

おきゅぱい

おきゅぱいと、
おぷぱいって、
語感が似ている。
でも全然ちがう。

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占拠と、
選挙も、
語感が似ている。
でも全然ちがう。

全然、ちがう。
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by okabar | 2011-12-07 12:41 | おしらせ