ところで批評ってなんでしょうか。
というのも、こないだ塚本さんがオカバ-に来た際に、 「作品が同時に批評であるようなものをつくりたい」 とおっしゃっていたからです。 これに対してわたしは即座に、「でも批評って言葉だから、言葉を使わずに批評であるって難しくないですか」と答えました。 ●瀧口修造とアンリ・ミショー それで帰宅後、モンモンとした気持ちで『ヨシダ・ヨシエ全仕事』という本を読んでいたのですが、そこに詩人の瀧口修造がある座談会(1960年)で語った速記録が引用されていたんです(下線を引いたのはわたし)。 「私もこの頃、現在の批評というものについて懐疑的になっています。今日の造形芸術について、そこで、何が行われているかを説明する用語がいかにも貧弱なのです。印象主義や、フォーヴィズムを説明したその同じ用語で、抽象絵画や超現実主義の解明が出来るかどうかということです。現在の美術批評家の書いているものの多くは単に交通整理したようなものです。文章になおすことが問題ではなく、感じとることが必要なのですが、一体、本当に何かを感じているかどうか、という点で非常に懐疑的です。」 瀧口さんはつまり、 批評において大切なのはまず感じることだ、 と言っているわけです。 続いて次のように語っています。 「そして、それを感じた場合でも、コミュニケーションということが問題です。アンリ・ミショオは、いわゆる画家的な画家ではありません、優れた詩人である。彼は詩を発想しても、言葉による今までの詩は不自由であるというのでそれをデッサンによって表現しているのです。絵画に興味をもっているのではなく、デッサンに興味を求めているのです。本来、文字も、絵画も同じ根源から出発したものです。文字も線、デッサンも線ですが、それがどこかでわかれて来たのです。ミショオのデッサンをみると、あれも一つの言葉であるという気がします。そして、言葉の媒介をかりないで、クリティックなものを行うことが出来るのではないかと思います」 恥ずかしながらわたしはアンリ・ミショーを知らなかったのですが、ウィキペディアで調べてみると、でてきました。彼の経歴を読んでみて面白かったのは、最初は絵画を嫌悪していた彼が、クレーやエルンストの作品に触れ、絵の制作に目覚めたという点です。 ●パウル・クレーと線の理論 クレーについてもわたしはこれまでよく知らず、「忘れっぽい天使」を携帯の待ち受けにしていた程度だったのですが、どうも彼は線の理論家であったようなのです。そのこと自体は周知の事実なのかもしれませんが、さらに、最近になって河出文庫に入った『千のプラトー』を読んでみると、著者のジルとフェリックスが、クレーの線の理論に大きな影響を受けていることがわかりました。 とはいえ、せっかく今日からパウル・クレー展がはじまるので(京都国立近代美術館)、クレーについて詳しくはまた今度書きますね。 ただ、ひとつだけ。 あなたのデッサンは「幼稚」だと言われてクレーは怒りを爆発させたそうですが、彼は反論として次のように書いているんです(引用は『千のプラトー』11章注の49より) 「私のデッサンが幼稚だという俗説は、私の線描作品に由来するのだろう。私が線描で試みたのは、たとえば一人の人間という、なんらかの事物の観念を、線という要素の純粋な提示に結びつけることだった。人間をありのままに描こうとしたなら、当惑をよぶだけの雑駁な線の絡み合いが必要となったはずだ。その結果生まれるのは、要素の純粋な提示などではなく、もはや前後の別もわからぬほどの混乱でしかなかったろう。」 クレーが表したかったのは、人間のあるがままの姿ではなくて、「あるかも知れない」姿だったのです。つまりクレーにとって線を描くことは、見えるようにすることであって、見えるものを表現したり再現することではないわけです。したがって彼は「子どもっぽく」描いているわけでも、子どもの真似をしているわけでもなく、線を描きながら<子どもになっていく>のです。 クレーの絵に触発されたミショーが紙の上に線を走らせ、その線に批評を見る瀧口修造はまた、クレーについて多く書いた詩人でもありました(『パウル・クレー論集』佐谷画廊)。そしてまた線についての重要な理論書でもある『千のプラトー』にクレーとミショーが引用されているのも、ある意味必然かもしれません。 ●ふたたび、批評とは 話が線だけに脱線してしまいましたが、今日の日本では現代美術に限らず芸術的なあらゆる分野において、批評が衰退しているようです。現在ではもはや、批評に不満を持つ以前に、批評そのものが不在である、というわけです。 ただし、これは批評をある一部の専門家(評論家)に任せる場合の話であって、万人が詩を書くように、万人が批評を書けば、あるいは描けば、状況は変わっていくはずです。 その際、瀧口修造の言葉に立ち返って確認するならば、求められているのは分析する力と指摘する力ではなく、感じる力と詩的な力であるということです(このことが取り違えられなければ、批評が表現者を傷つけるといった不毛な現象も減少するはず)。 そして、点ではなく線を引くこと、いま見えているものに縛られた世界を解放する、流れるような逃走線を走らせること。詩と絵画の間にある障壁を取り去ることが急務だと語った瀧口修造はまさにそのために、詩人に対して呼びかけているのです。ただしこの呼びかけは、万人が詩人であれ、という願いと共に受けとめられてはじめて輝くはずの・・・ ぼくは詩人たちがもっと造形の世界に接して、書いてほしいと思う。絵画の批評といえば、すぐ技術的な品定めをしようとするから、足を出すし、画家もはた迷惑をします。詩人としての感受性を存分に発揮して、絵の世界を彼独自の言葉に移して書くようになれば、絵の鑑賞の世界を深めることになり、画家も大いに鼓舞されるでしょう。深い観賞のないところに芸術の進歩もないわけです。 瀧口修造『今日の美術と明日の美術』(1953年)より
by okabar
| 2011-03-12 01:26
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